2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、源頼家が登場します。
父親の頼朝が急死したため、頼家は18歳で家督を継ぐことになりました。
「頼家の妻たちは、どんな人?」
「頼家には、何人の子どもがいた?」
など、頼家の妻子が気になりますよね。
この記事では、
- 頼家の4人の妻は誰?
- 正室は誰?
- どの妻が、「せつ」や「つつじ」にあたる?
- 頼家の5人の子供は誰?
などについて、解説をまとめています。
源頼家の4人の妻を解説!『鎌倉殿の13人』での名前は?
源頼家の妻は誰が正室か不詳
まず、源頼家の妻について、ざっくり紹介します。
史料から明確に分かっているのは、少なくとも4人です。
- 若狭局(比企能員の娘)
- 辻殿(母が源為朝の娘)
- 一品房昌寛の娘
- 木曽義仲の娘
北条家の正史書『吾妻鏡』では、正室が辻殿、若狭局は愛妾と書かれています。
しかし、若狭局が産んだ一幡は、嫡子と同等の扱いを受けているため、誰が正室なのかはっきりしません。
なお、頼家が横恋慕する安達景盛の妻については、別の記事をご参照ください。
【鎌倉殿の13人】ゆうと源頼家の略奪愛に政子が大説教!安達景盛の反応も!
【妻1】若狭局はドラマの「せつ」
若狭局の両親と子どもは、以下の通りです。
- 父:比企能員
- 母:ミヤセノ大夫行時の娘
- 子供:一幡(長男)、竹御所(長女)
若狭局の生年がいつかは、分かっていません。
比企能員は、源頼家の乳母父でした。
そのため、比企能員の娘である若狭局のことは、子供の頃からよく知っていたでしょうね。
若狭局は、頼家が17歳の時に、長子である一幡を出産します。
一幡は、長子で男児ですから、比企家は一族をあげて喜んだでしょう。
また、頼家のただ一人の娘・竹御所を産んだのも、若狭局という説があります。
一幡が6歳の時(1203年)に、比企能員の変が起こります。
北条義時の大軍に攻め入られたため、比企一族は、一幡の屋敷である小御所に立て籠もり、火を放って自害したのでした。
『吾妻鏡』では、若狭局も一幡も焼死したと伝えています。
一方、比企家の縁者が記した『愚管抄』には、若狭局と一幡は逃げ延びたものの、
その後に義時の手下に刺殺されたと記録されています。
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、刺殺説を採用していますね。
また、ドラマでは、若狭局は「せつ」という名前で登場します。
演じるキャストは、山谷花純さんです。
【妻2】辻殿はドラマの「つつじ」
源頼家の妻・辻殿の両親と子供は以下の通りです。
- 父:足助重長(三河源氏)
- 母:源為朝の娘
- 子供:公暁(次男)
辻殿の生年・没年は分かっていません。
北条の正史書『吾妻鏡』では、辻殿が頼家の正室とされています。
辻殿が正室とされている理由としては、主に2つの可能性が指摘されています。
- 頼家の死後、家族をまとめる後室の立場をとったから
- 頼朝が、比企よりも家格が高い辻殿を正室に選んだから
辻殿は、1200年に頼家の第2子である善哉(後の公暁)を出産しました。
頼家が亡き後の辻殿については、詳細が分かっていません。
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、辻殿は「つつじ」という名前で登場します。
キャストは、北香那さんです。
【妻3】一品房昌寛の娘
3人目の源頼家の妻の両親と子供は、以下の通りです。
- 父:一品房昌寛
- 母:不詳
- 子供:栄実(三男)、禅暁(四男)
3人目の妻である一品房昌寛の娘については、ほとんど何も伝わっていません。
父親は、源範頼を大将とした平家追討軍に従軍し、成勝寺の執行に就任しました。
鎌倉幕府が開かれると、頼朝の右筆(秘書)となりました。
頼朝から、庶子である貞暁の乳母夫を依頼されましたが、断っています。
庶子ということは、頼朝の本妻・政子の子供ではありません。
政子の嫉妬や反感を買うのが怖くて、断ったようです。
どのタイミングだったか不明ですが、昌寛は出家して僧侶となっています。
【妻4】木曽義仲の娘
木曽義仲の娘が、頼家の側室になった経緯は分かっていません。
『尊卑分脈』では、頼家の娘・竹御所の母が、木曽義仲の娘と記されています。
そこから、木曽義仲の娘が、頼家の側室だったのではないかと伝わっています。
ただ、竹御所の母親は諸説あるため、はっきりと分かっていません。
源頼家の子供5人はどうなった?
頼家には、息子4人・娘1人で合計5人の子供がいました。
息子たちは全て非業の死を遂げています。
源氏の嫡流は、ことごとく潰されていったことがわかります。
【子供1】一幡は北条家に殺害された
頼家の長男である一幡は、比企の娘・若狭局が産んだ子供でした。
6歳の時に、比企能員の変が起こり、幼くして亡くなっています。
頼家が重病となったため、家督をすべて一幡に譲るのではないかと、北条家が恐れたんですね。
一幡が頼家の後継者となると、比企家は幕府一の権力者となります。
そのため、北条家が比企能員を陥れて一族を滅ぼしたのが、比企能員の変でした。
『吾妻鏡』では、一族が自害した火事で、一幡も焼死したと伝わっています。
一方で、比企家の縁者が残した『愚管抄』では、北条義時の手下に殺害されたと記されています。
そのため、一幡は比企家と権力争いをしていた北条家に殺されたと見る向きが強いようです。
【子供2】公暁は叔父・実朝を殺害した
頼家の次男である公暁は、頼家が鎌倉殿となった翌年に生まれました。
幼名は、善哉です。
乳母夫は、三浦義村ですね。
母親は、実は諸説あります。
- 『吾妻鏡』では、辻殿
- 『尊卑分脈』では、若狭局
- 『源氏系図』では、三浦義澄の娘
しかし、若狭局の息子だとすると、比企家の血を引くことになります。
北条家は遺恨を残さないようにしたでしょうから、「公暁は、辻殿が産んだ」という見方が有力のようです。
公暁が5歳の時に、父親の頼家が暗殺されます。
公暁は、7歳の時に、祖母である政子の計らいで、北条家で着袴の儀式を行いました。
同じ年に、乳母夫の三浦義村に付き添われて、叔父である実朝の猶子(養子)となっています。
猶子になったのも政子の計らいです。
しかし、後に遺恨を残さないように、12歳の時に出家させられています。
公暁は、現在の滋賀県にある園城寺の門弟となりましたが、18歳で鎌倉に戻ります。
そして、政子の計らいで、鶴岡八幡宮別当に就任したのでした。
公暁が20歳の年に、鶴岡八幡宮を参拝した実朝を襲撃し、殺害。
「親の敵はかく討つぞ」と叫んで斬りつけています。
この時、実朝は右大臣拝賀のために参詣していました。
儀式が執り行われたため、兵は鳥居の外に控えており、境内には武装した者がいなかったのです。
公暁は、実朝の首を持って家に戻り、乳母夫の三浦義村に「今こそ我は東国の大将軍である。その準備をせよ」と使いを出しています。
義村は「迎えの使者を送ります」と偽る一方で、北条義時に連絡を入れます。
義時は、すぐに公暁を誅殺すると決め、義村が討手を差し向けました。
公暁は、迎えが来ないことを訝しんで、義村の館へ向かう途中で討手に遭遇。
義村の館の塀を乗り越えようとしたところで討ち取られています。
公暁の墓は現存しておらず、場所についても伝わっていません。
ちなみに、鶴岡八幡宮の大イチョウの下で実朝が斬られたというのは、江戸時代に作られた伝説です。
鎌倉時代の史料には、鶴岡八幡宮のどこで斬られたという話は載っていません。
【子供3】栄実は栄西の弟子になった
頼家の三男とされる栄実は、1201年に生まれて1215年に亡くなっています。
母親は、一品房昌寛の娘です。
父親の頼家が亡くなったときは、まだ4歳という幼さでした。
その後、尾張中務丞に養育されています。
1213年には、北条家に反感をもつ泉親衡に、義時暗殺の陰謀に加担させられてしまうのです。
捕らえられた栄実は、祖母の政子の命により出家します。
栄西の弟子となって、栄実と名乗るようになります。
しかし京都にいるときに、またもや和田氏の残党に担ぎ出されて、六波羅襲撃の計画に加わったことが露見。
幕府の襲撃を受けた時に、自害しています。
享年14歳でした。
源氏の嫡流だと、何かと打倒北条に担ぎ出されてしまうんですね。
【子供4】禅暁は誅殺された
頼家の四男・禅暁は、何年に生まれたか分かっていません。
母親は、「一品房昌寛の娘」という説と、「足助重長(加茂重長)の娘」という説があります。
頼家が亡くなった後は、出家して仁和寺の門弟となっています。
母親は、三浦胤義と再婚しました。
三浦胤義は、三浦義澄の末っ子で、義村の弟です。
禅暁は、公暁の実朝暗殺に加担したのではないかと疑われています。
鎌倉から使者の二階堂行光が迎えに行き、連れ立って京を出立しています。
その1年2ヵ月後に京の東山あたりで誅殺されました。
享年は、17~19歳頃と考えられています。
亡くなるまでの空白の約1年間に、何があったのかは分かっていません。
母親の夫となった三浦胤義が、助命歎願していたのではないかという説もあります。
禅暁が亡くなったことで、頼朝の男子は全て死亡したのでした。
【子供5】竹御所は政子の後継者になった
頼家の唯一の娘・竹御所は、1202年に生まれて1234年に亡くなりました。
名前は、鞠子(まりこ)、媄子(よしこ)とも呼ばれています。
母親については、以下の3つの説があります。
- 木曽義仲の娘
- 美濃局(北条時政の娘)
- 若狭局(比企能員の娘)
竹御所の邸宅は、比企氏の邸宅跡だったため、若狭局が母親という説が有力です。
1歳の時に比企能員の変が起こり、翌年に父親を亡くしています。
竹御所は、15歳の時に、政子の命で実朝の猶子(養子)となりました。
竹御所の男兄弟たちは、源氏の嫡流ということで次々と非業の死を遂げます。
しかし、竹御所は女子であったことや、政子の庇護があったことから、陰謀などに巻き込まれずに済んでいます。
源頼朝の血を引く唯一の生き残りということで、幕府の権威のシンボルとして御家人から尊敬を集めました。
そのため、政子の死後には、実質的に政子の後継者となり、御家人をまとめる働きをしています。
29歳の時に、第4代将軍・藤原頼経に嫁いでいます。
何と、将軍は16歳も年下の13歳でした。
しかし夫婦仲は円満だったようで、竹御所は4年後に懐妊します。
しかし難産の末に男児を死産し、竹御所もまもなく亡くなってしまいました。
竹御所の死により、頼朝の直系子孫は途絶え、源氏将軍の血筋も絶えてしまいます。
竹御所の享年は、33歳でした。
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【鎌倉殿の13人】解説・考察記事の一覧
【北条義時】
【源頼朝】
【北条政子】
【三浦義村】
【比奈】
【善児】
【キャスト】
【鎌倉殿の13人】源頼家の妻子まとめ
- 源頼家には、少なくとも4人の妻がいた
- 『吾妻鏡』によると、正室は辻殿だが、はっきりとは分かっていない
- 頼家には、息子4人・娘1人の5人の子供がいた
- 一幡は比企能員の変で死に、公暁は実朝を暗殺し、栄実や禅暁も非業の死を遂げた
- 娘の竹御所は、政子の実質的な後継者となったが、産後の肥立ちが悪く、33歳で亡くなった