大河ドラマ『鎌倉殿の13人』のタイトル画像

2022年の大河ドラマは『鎌倉殿の13人』です。

主人公の北条義時の良き友人として、山本耕史さんが三浦義村を好演しています。

主要登場人物なので、三浦義村の妻子や現在の子孫が気になりますよね。

この記事では、

  • 三浦義村の妻と子供は?
  • 大河ドラマの16話で八重が預かった娘はつは誰?
  • 三浦義村の現在の子孫は?

について、解説をまとめています。

『鎌倉殿の13人』での三浦義村は、序盤から成人していますが、史実とだいぶ異なります

三浦義村の年齢や死因については、別の記事にまとめましたので、ご参照ください。

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三浦義村の妻は2人!

三浦義村の妻は2人いました。

三浦義村の妻
  1. 一条忠頼の娘

  2. 土肥遠平の娘

ひとりずつ解説します。

【妻1】一条忠頼の娘

一条忠頼は、武田信義の息子です。

『鎌倉殿の13人』では、八嶋智人さんが武田信義を演じていますね。

その息子の一条忠頼も大河ドラマに登場しますが、キャストは現時点で不明です。

一条忠頼は『鎌倉殿の13人』の第17話(5/1放送回)に登場し、成敗されてしまいます。

三浦義村は、この一条忠頼の娘と結婚したのです。

つまりは、甲斐源氏の家系の女性だったのですね。

【妻2】土肥遠平の娘

土肥遠平は、土肥実平の息子です。

『鎌倉殿の13人』では、阿南健治さんが土肥実平を演じています。

土肥実平は、石橋山の戦いからの頼朝の古くから家臣です。

名前にあるように、相模国土肥の出身なので、現在の神奈川県湯河原町辺りですね。

土肥遠平の娘は、同じ相模国の豪族の娘だったわけです。

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三浦義村の子供は14人!娘はつは誰?

三浦義村の息子は10人

三浦義村には、息子が10人、娘が4人いました。

男女別にまとめてみました。

三浦義村の息子たち
  1. 朝村

  2. 泰村

  3. 長村

  4. 光村

  5. 重村

  6. 家村

  7. 資村

  8. 胤村

  9. 重村

  10. 良賢(僧侶)

息子たちは、義村の「村」を一字ずつもらっていますね。

名前の最初の一字は、烏帽子親からもらっているはずです。

ちなみに、長男・朝村の烏帽子親は、源実朝です。

次男・泰村の烏帽子親は、北条泰時です。

それぞれ「朝」と「泰」の一字をもらっています。

また、末息子の名前は「良賢」ですが、出家しているためでしょう。

良賢については生い立ちの詳細が不明で、何歳で出家しているか分かりません。

幼少期から寺に預けられているなら、幼名のあとにすぐ「良賢」になっていそうです。

成人して出家したなら、かつては「村」のついた名前を持っていた可能性が高いです。

三浦義村の娘は4人

次に、義村の娘たちを見てみましょう。

三浦義村の娘たち
  1. 矢部禅尼

  2. 土岐光定室

  3. 毛利季光室

  4. 千葉秀胤室

この時代、女性にも名前はあったはずですが、記録として残っていることが少ないです。

そのため、「誰それの妻(室)」というような呼ばれ方をしています。

また、武家だと基本的に政略結婚がほとんど。

長女の矢部禅尼は、頼朝の命令で北条泰時と結婚していますが、その後離縁しています。

なぜ離縁したかは不明です。

その後、三浦家の親戚にあたる佐原盛連と再婚しましたが、夫に先だたれました。

そのため、故郷の三浦に戻って出家したのです。

『鎌倉殿の13人』娘の初は矢部禅尼

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』(4/24放送の第16話)では、

義村が八重に乳飲み子の娘を、押し付けるようにして世話を頼んでいました。

  • 子どもの名前は「初」
  • 母親は産後の肥立ちが悪く、亡くなった

「妻がワケアリで」とか言っていましたね。

前述したように、この時代の女性の名前そのものは、記録にはほとんど残っていません。

結婚後の「誰それの妻」「誰それの娘」という呼び方で記録されています。

そのため、「はつ」が誰にあたるのか分かりませんが、「初」なら順番的にいって「長子」なのでしょう。

泰時も生まれたばかりで、4/24の放送回で「金剛」と頼朝に名前を付けてもらっていました。

7/31放送の感じだと、泰時と初は結婚するようです。

ということは、初は矢部禅尼ですね!

なので、いずれ泰時と離婚することになります。

それにしても、史実として残っている義村の妻は2人です。

「最初の子どもを生んだ後、肥立ちが悪くて亡くなった」となると、

もう一人の妻が13人産んだことになります。

かなり過酷ですよね。

ドラマに演出はつきものですが、「はつを産んですぐ亡くなった妻」というのは、

一条忠頼の娘でも、土肥遠平の娘でもない、別の女性という設定なのかもしれません。

いずれドラマで分かるといいですね。

また気になるのは、16話の時点で三浦義村は歴史的には16歳です。

元服しているとはいえ、「ワケアリ」なのは義村の方という感じですね。

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三浦義村の現在の子孫は?

三浦一族の宗家は滅亡した

三浦義村の跡を継いで宗家当主となったのは、次男の三浦泰村でした。

しかし、安達景盛と折り合いが悪くなり、三浦家全体が幕府の中で孤立してしまいます。

最期は、北条時頼と安達景盛の策謀にはまってしまい、泰村は反乱を起こしてしまうのです。

最終的に、泰村は「宝治合戦」で負けて、妻子一族郎党とともに自害。

こうして、三浦家は滅亡してしまったのです。

「じゃあ、三浦家の子孫は残ってないの?」と思いますよね。

三浦家の子孫は、以下が続いている可能性があります。

三浦義村の子孫
  • 四男・光村の子孫
  • 六男・家村の子孫
  • 八男・胤村の子孫

それぞれ見ていきましょう。

四男の子孫が京都で続いてる?

四男・光村も宝治合戦で自害しています。

しかし、光村の妻は出家して鎌倉を出ています。

光村の妻は、後鳥羽上皇の北面の武士・藤原能茂の娘でした。

なので、夫亡きあとは、京に帰った可能性が高いです。

この時、光村の妻は赤ん坊がいたそうですから、この子孫が続いているかもしれません。

六男・家村の子孫は江戸時代の藩主になった?

家村の子孫が、後の江戸時代に美作勝山藩主になったと言われています。

美作勝山は、現在の岡山県ですね。

美作勝山の藩主家が、三浦家なのです。

初代藩主の三浦正次は、老中・土井利勝の甥だったこともあり、若年寄まで出世しています。

子孫は明治時代には子爵になっているので、令和時代にも家系が続いているのではないでしょうか。

八男の子孫が静岡で続いてる?

三浦家が「宝治合戦」で滅亡したと前述しました。

宝治合戦の時に奥州にいた八男の胤村は、捕らえられて鎌倉に送られました。

幕府に対する反乱には直接関わっていなかったため、責任を問われずに済み、助命されています。

胤村は出家して「明空坊」と名乗り、親鸞聖人の弟子となりました。

茨城県の下妻に光明寺を開いたと言われています。

そして、末裔である駿河三浦氏が、現在も続いているようです。

駿河なので、静岡県ということですね。

長女の子孫は室町時代に途絶えた

最後に、宝治合戦では生き延びたものの、その後途絶えた子孫についても解説します。

前述しましたが、長女の矢部禅尼の最初の結婚相手は、北条泰時でした。

3代目執権ですね。

泰時と離縁した後は、三浦家の親戚の佐原盛連と再婚しています。

そのため、宝治合戦のときに佐原一族は、三浦家ではなく北条家に加担したのです。

矢部禅尼が、宗家の三浦ではなく、北条につくよう言ったのではないかと言われています。

これにより、佐原一族は「三浦介」として家系が続くのです。

しかし、室町時代に北条早雲と戦ったのち、滅亡してしまいます。

以上のことから、令和時代まで続いている子孫としては、

三浦義村の現在の子孫
  • 六男の家村の家系
  • 八男の胤村の家系

が有力といえそうです。

特に六男の家系は、明治時代は子爵ですから、現在も名家のお金持ちの家柄かもしれませんね。

現在でも「三浦」という姓なのか、気になりますね。


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三浦義村の妻子・子孫まとめ

まとめ
  • 三浦義村には妻が2人、子供が14人いた
  • 三浦家の宗家は、次男・泰村の代に途絶えてしまった
  • 三浦義村の子孫としては、六男・家村と八男・胤村の家系が続いている可能性がある
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