大河ドラマ『鎌倉殿の13人』のタイトル画像

2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』には、多くの武士が登場します。

「鎌倉殿の13人って誰?」と思った人も多いでしょう。

この記事では、

  • 鎌倉殿の13人の名前と経歴は?
  • 注目すべき「鎌倉殿の13人」は誰?

について、分かりやすく解説をまとめました。

鎌倉殿の13人とは誰?名前の早見一覧表

https://twitter.com/nhk_kamakura13/status/1465928652017778704

「鎌倉殿の13人」の元ネタは「十三人の合議制」

2022年の大河ドラマのタイトル『鎌倉殿の13人』とは、何のことなのでしょうか?

タイトルの元ネタは「十三人の合議制」という政治体制です。

源頼朝は、1199年に落馬して急死します。

長男の頼家は、まだ18歳でした。

頼家は、大江広元ら御家人にサポートされながら、政治の仕事を始めます。

頼家が、直接いろんな訴え事を聴かないようにするため、「十三人の合議制」というシステムが作られたのです。

訴訟の時は、頼家に直接言わずに13人を通してね、ということですね。

なぜ「十三人の合議制」という仕組みがつくられたのでしょう?

北条家の正史書とされる『吾妻鏡』によると、

頼家が、就任早々に自分勝手に前例を覆して政治を行い、失敗続きだったから、と伝えられています。

しかし、つじつまの合わないことも多いため、歴史家の中には『吾妻鏡』の内容を疑問視する人もいるようです。

ざっくり言えば、「独裁にならないよう、周りがチェックできるようにした」と言えそうです。

「鎌倉殿の13人」一覧表

「鎌倉殿の13人」を一覧にまとめました。

まずは、名前と出身地などを簡単に確認してみましょう。

氏名出身地
北条義時伊豆国武士
北条時政伊豆国武士
梶原景時相模国武士
三浦義澄相模国武士
和田義盛相模国or安房国武士
比企能員阿波国or安房国武士
足立遠元武蔵国武士
安達盛長武蔵国武士
八田知家下野国武士
中原親能京都下級貴族
大江広元京都下級貴族
三善康信京都下級貴族
二階堂行政京都下級貴族

坂東武者だけでなく、京都の下級貴族も入っています。

武家はいつの時代も、有力者同士が婚姻関係を結んで、互いを戦力とします。

平安末期、鎌倉時代でも、御家人同士が婚姻による親戚関係となりました。

頼朝の挙兵を助けたのも、やはり親戚関係です。

妻の政子の実家である北条氏が、頼朝の大きな後ろ盾となりました。

また、足立遠元八田知家のように、頼朝の父親・義朝の代から源氏についた家系もあります。

平家を打倒し、源氏による鎌倉幕府を開くまでは、一致団結していた御家人たち。

しかし、頼朝亡き後は、北条家を中心に、御家人同士で権力争いをすることに。

滅ぼす者と滅ぼされる者、うまく立ち回る者と、様々な人間模様が繰り広げられます。

『鎌倉殿の13人』が、どのような「栄枯盛衰」を見せるのかが、ドラマの見どころとなるでしょう。

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注目すべき「鎌倉殿の13人」は?

ブログ主は源平マニアで、「名こそ惜しけれ」と戦った平家と源氏の武将が大好きです。

「敵ながらあっぱれ」という態度で、卑怯なところがほとんどないのが「源平合戦」なのです。

少年ジャンプのノリに近いものがあり、ワクワクします。

「鎌倉殿の13人」は、平安末期は「平家を倒して源氏を復興しよう」と一致団結しています。

しかし、頼朝の死後は、お互いを出し抜く権力争いのデッドヒートにもつれこむのです。

他人を陥れる謀略の世になるので、個人的には「途端につまらなくなる」時代です。

ここら辺を、三谷幸喜さんがどう面白く見せてくれるかが、楽しみですね。

この章では個人的に注目している「鎌倉殿の13人」のメンバーをピックアップしました。

サザエとカツオに追い出された「波平」とは?

https://twitter.com/nhk_kamakura13/status/1467711651847749633

三谷幸喜さんは『鎌倉殿の13人』について、

「サザエ(政子)とカツオ(義時)が、波平(時政)を追い出す物語」

と説明しています。

とても分かりやすくて面白い説明ですよね。

波平こと北条時政を演じているのは、坂東彌十郎さん。

頼朝亡き後、ちょっとやりすぎるんですよね。

終いには、孫の実朝も殺害してしまいます。

その結果、政子と義時により幕府から追い出されることに。

北条家のお家騒動も、『鎌倉殿の13人』の見どころでしょう。

悲劇的な御家人2人とは?

https://twitter.com/nhk_kamakura13/status/1470244593492844547

いつも気の毒に思う御家人は、

悲劇の御家人
  • 比企能員
  • 和田義盛

です。どちらも悲劇の結末となります。

とくに比企家は一族郎党皆殺しとなってしまうのです。

そこまでやらなくても…というくらい徹底的につぶされました。

和田義盛も、最後は我慢しきれず北条家を討とうとして、敗れてしまいます。

  • 比企能員は、政子にしてやられた系
  • 和田義盛は、義時にしてやられた系

です。北条家の姉弟は恐るべしですね。

自業自得になった御家人は?

源平マニアで判官びいきのブログ主が、一番忌々しく思っているのが梶原景時

梶原景時は、ひと言で言うと「告げ口屋」なのです。

源頼朝が挙兵した石橋山の合戦で、梶原景時は頼朝の敵でした。

しかし、頼朝を助けたことで信頼されるようになります。

そして、梶原景時と犬猿の仲だったのが、源義経だったのです。

頼朝に気に入られていることをいいことに、義経や御家人たちの告げ口をしたのでした。

「梶原景時がいなければ、頼朝と義経はあそこまで険悪にならなかったのでは」と思う人は多いでしょう。

頼朝が生きているうちは、告げ口を恐れて御家人たちも我慢していました。

しかし、頼朝の死後には御家人たちの不満が爆発。

梶原景時は幕府から追い出される格になりましたが、自業自得としかいいようのない結末を迎えます。

中村獅童さんは、憎たらしい梶原景時を、きっと憎たらしく演じてくれるでしょう。

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そつなく立ち回ったナンバーツーの男は?

https://twitter.com/nhk_kamakura13/status/1470609497118945281

本来なら「鎌倉殿の13人」は、頼家を助けるための合議制メンバーでした。

しかし、ライバル同士でもあるんですよね。

比企や和田のように、滅んでしまった御家人もいます。

そんな中、「そつなく、うまくやったなあ」とブログ主が思うのは、大江広元

大江広元は、武士ではなく京都の下級貴族でした。

そのため武力ではなく、知力と謀略でのし上がった人です。

表立って武力を用いて「〇〇家を滅ぼす」ということはありません。

「上手に、鎌倉幕府の権力争いの海を泳ぎきった人」という印象です。

うまくいった一番の理由は、北条政子・義時の姉弟と対立しなかったことですね。

常に姉弟に協力していたので、信頼されていたのです。

結果、幕府のナンバーツーとなります。

大江広元の処世術は、サラリーマンには参考になるかもしれません。

一番のやり手でラスボスの14人目は?

https://twitter.com/nhk_kamakura13/status/1467707876324126722

個人的に、一番のやり手でラスボスは、「鎌倉殿の13人」の外にいる北条政子だろうと思います。

天皇として政を治めた女性は、推古天皇や持統天皇がいます。

しかし、「尼将軍」と将軍呼ばわりされたのは、後にも先にも北条政子だけです。

気が強く勝気な政子は、頼朝の愛妾に対する嫉妬も隠しません。

御家人に頼んで、愛妾・亀の前の家を叩き壊すなど、派手にやります。

恐妻家の頼朝は、政子に強く出られないので、政子を手伝った御家人を処分するんですよね。

命令されて従っただけの武士が、気の毒な感じです。

情熱家の政子は、弁もたつので「いざ鎌倉へ」の演説は見どころとなるでしょう。

頼朝亡き後は、息子の頼家・実朝が将軍につきますが、執権の北条家が実質的な権力を握っていました。

表向きは、男性である弟の義時がナンバーワンの実力者。

しかし、その後ろにいた頼朝の正室で、頼家・実朝の実母の政子が、黒幕的存在だったことは否めません。

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鎌倉殿の13人の経歴を分かりやすく解説

では、「鎌倉殿の13人」を一人ずつ、分かりやすく解説します!

北条義時(ほうじょう・よしとき)

https://twitter.com/nhk_kamakura13/status/1467706617093365767
北条義時
  • 出身地:伊豆の田方郡
  • 家族:北条時政の次男、政子の弟
  • 得宗家の2代目当主
  • 享年:61
  • 墓所
    北條寺(静岡県伊豆の国市)
    頼朝法華堂の東の山(鎌倉市)

姉の政子が頼朝の正室となったことで、頼朝の義弟という関係になります。

そのため、源氏の挙兵に協力することになりました。

頼朝亡き後は、2代目将軍の源頼家を支える重臣「鎌倉殿の13人」の一人になります。

そして源氏の三代目将軍・実朝が暗殺された後は、鎌倉幕府の実質的な指導者に。

その一方で、朝廷との関係は徐々に悪化していきます。

1221年は、後鳥羽上皇が義時追討の命令を全国の武士に発します(承久の乱)。

政子が「いざ鎌倉へ」の有名な演説をしたのは、この時ですね。

義時は、都へ大軍で攻め入り、上皇を圧倒します。

結果、義時は鎌倉幕府の最高権力者となるのです。

ブログ主の視点

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の脚本家・三谷幸喜氏は、「サザエとカツオが、波平を追い出す物語」と説明していますね。

サザエが政子、カツオが義時、波平が時政というわけです。

サザエさんを引き合いにした、分かりやすくて面白い例えですね。

ある種の「お家騒動」であるわけですが、政子と義時がタッグを組んで、父親の時政を追い落とす過程が見どころでしょう。

北条時政(ほうじょう・ときまさ)

https://twitter.com/nhk_kamakura13/status/1467711651847749633
北条時政
  • 出身地:伊豆の田方郡
  • 家族:北条政子と義時の父、頼朝の義父
  • 鎌倉幕府の初代執権
  • 享年:78
  • 墓所:願成就院(静岡県伊豆の国市)

北条氏は、先祖を桓武平氏とする伊豆の豪族です。

なので、血筋だけ見ると、源氏の敵方に当たるわけですね。

時政は、娘の政子が頼朝の妻となると、鎌倉幕府の初代執権となり、一代で権力を握ります。

それだけ、頼朝に信頼されていたのでしょうね。

例えば、頼朝が義経と対立した時は、頼朝の代官を務めています。

  • 京都の治安維持
  • 家残党の捜索
  • 義経問題の処理
  • 朝廷との政治折衝

などに、手腕を発揮したのです。

頼朝の死後は、もちろん「鎌倉殿の13人」の一人となりました。

そして、北条家の権力強化のために、次々と仲間や主君を殺害します。

  • 比企能員を北条の館で殺害(比企一族が滅亡)
  • 畠山重忠を謀反罪で滅ぼす
  • 将軍・源実朝を殺害

時政が実朝を殺害したのは、平賀朝雅を新将軍にしたかったからです。

しかしこれにより、政子や義時と決定的に決裂することになりました。

時政は完全に孤立し、伊豆で隠居することに。

その後は、政治からは完全に遠ざかることになったのです。

ブログ主の視点

北条時政は、政治に長けた人物でした。

「鎌倉殿の13人」にも選ばれるほど、頼朝時代に実績を上げています。

比較すると、戦国時代の黒田官兵衛には、「黒田二十四騎」と呼ばれる精鋭の家臣がいました。

「鎌倉殿の13人」は 「黒田二十四騎」と違い、権力争いで殺し合いになったりすることも。

「鎌倉殿」を盛り立てるというより、自分のお家ファーストになっていくのです。

せっかく源氏の世になったものの、実質的には頼朝一代で終わったような感じでした。

家臣に恵まれないと、あっという間にお家(源氏)がつぶれるという良い例でしょう。

孫の実朝を殺害するというのは、とても業が深いなあと思いますよね。

あるいは、妻が牧の方でなければ、時政の人生もまた違ったものだったかもしれませんね。

梶原景時(かじわら・かげとき)

梶原景時
  • 出身地: 駿河国
  • 得宗家の2代目当主
  • 享年:60歳くらい
  • 墓所
    梶原堂(静岡市)
    五輪塔(鎌倉市深沢小学校)
    万福寺(東京都大田区)
    神宮寺(兵庫県南あわじ市)

梶原景時は、石橋山の戦いで頼朝を討伐する側でした。

しかし頼朝を助けたことにより、信頼されるようになります。

また、荒くれ者のイメージの強い坂東武者にしては、雅なところもあり「武家百人一首」に和歌が選ばれています。

弁舌がたち、教養もあることから、

  • 鶴岡八幡宮の建造
  • 囚人監視
  • 政子の出産奉行
  • 侍所所司

など務めました。

「鎌倉殿の13人」に選ばれたものの、他の御家人たちの怒りを買い、失脚することに。

「吾妻鏡」という北条氏の正史書には 

「二代にわたる将軍の寵愛を誇って傍若無人に振る舞い、多年の積悪が遂に身に帰した

とあります。

いろんな人から恨まれていたことが伺えます。

翌年、一族を率いて上洛しようとした景時は、駿河の国で戦闘になり、最後は自害しました。

ブログ主の視点

ブログ主は、源平マニアで判官びいきです。

そのため、梶原景時には良いイメージがありません

頼朝に信頼されているという立場を利用して、頼朝の耳に義経の讒言をしつこく入れ続けました。

梶原景時がいなければ、頼朝が義経をあれほど毛嫌いすることもなかったかもしれませんね。

梶原景時は、何かと頼朝に他の御家人の悪口を言い続けて、他人を陥れていました

最後に幕府の御家人たちから総スカンをくって失脚したのも、因果応報という感じがします。

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三浦義澄(みうら・よしずみ)

https://twitter.com/nhk_kamakura13/status/1468795042001297412
三浦義澄
  • 出身地:相模国三浦郡
  • 家族:妻は伊藤祐親の娘
  • 享年:74
  • 墓所:薬王寺(横須賀市)

石橋山の戦いでは、和田義盛らと前線に向かいますが、増水で川を渡れず参戦できませんでした。

引き返す途中で、畠山重忠と戦い、父親の義明が討ち死にしてしまいます。

義澄の妻は、伊藤祐親の娘でした。

石橋山の戦いで、平家についた伊東祐親は捕らえられて、義澄が預かることになります。

義澄は助命歎願し、頼朝の許しました。

しかし、祐親は頼朝と八重の間にできた千鶴丸を殺したことを恥じて、自害します。

義澄は、平家追討(一の谷の戦い、壇ノ浦の戦い)にも参戦して、武功を上げました。

「鎌倉殿の13人」となった後は、梶原景時を追放する御家人のひとりとなります。

梶原景時が自害した3日後、74歳で病死しました。

和田義盛(わだ・よしもり)

https://twitter.com/nhk_kamakura13/status/1468796300929941511
和田義盛
  • 出身地:相模国三浦郡和田(もしくは安房国和田)
  • 家族:三浦義澄と同じ一族
  • 享年:67
  • 墓所
    和田塚(鎌倉市由比ガ浜)
    白旗神社(神奈川県三浦市)

三浦義澄らと石橋山の戦いに向かうも、増水で川を渡れず参戦できませんでした。

しかしその後、北条時政らと合流して、房総半島で頼朝を迎えます。

『平家物語』では、和田義盛は弓の名手として描かれています。

壇ノ浦の戦いで、渚の馬上から遠矢を射かけ、平家を驚かせています。

矢には義盛の名と「この矢を返してみせよ」と書かれていたそうです。

平家討伐の後は、奥州の藤原氏の討伐にも加わり、武功を上げています。

「鎌倉殿の13人」になった後は、梶原景時の失脚で一役買います。

景時が政治から去った後は、義盛が侍所別当に復職しました。

畠山重忠の乱の時には、大将軍として出陣し、畠山家を滅ぼしています。

義盛は、上総国司の職に就こうとしますが、政子が邪魔をして就かせていません。

1213年には、義盛の息子や甥たちが北条氏を打とうとして失敗。

義盛は実朝らに助命歎願を願い出て、息子たちの罪は許されました。

しかし甥の胤長は許されず、流罪となって鎌倉の屋敷も没収されてしまいます。

没収された屋敷をめぐって、北条義時が挑発するような真似をしたため、義盛は挙兵。

反北条一派とともに、鎌倉で戦っています。

和田一族の多くは戦死しており、義盛は悲嘆号泣した上で、自身も討ち死にしたのでした。

比企能員(ひき・よしかず)

https://twitter.com/nhk_kamakura13/status/1470244593492844547
比企能員
  • 出身地:阿波国または安房国
  • 家族:頼朝と乳兄弟、比企尼の甥
  • 墓所:妙本寺(鎌倉市)

比企能員の伯母の比企尼は、頼朝の乳母でした。

また、北条政子は比企能員の屋敷で、長男の頼家を出産します。

能員の妻が、頼家の乳母となりました。

比企家と源家・北条家には、強い繋がりがあったことが分かりますね。

比企能員は、

  • 源義高討伐
  • 平家討伐

に従軍しています。

鎌倉幕府では、上野国と信濃国の守護となっていることからも、頼朝から厚遇されていることが分かります。

「鎌倉殿の13人」になった後は、比企一族の命運が暗転します。

北条時政の権力の振るい方に不満をもった能員は、頼家に「時政が謀反している」と伝えます。

頼家は、時政を追討するように能員に命じたのでした。

話を立ち聞きした政子は先手を打ち時政は能員を自邸に招いて殺害

比企一族は、北条氏に滅ぼされてしまうのでした。

ブログ主の視点

鎌倉時代の比企と言えば、悲劇の一族というイメージです。

頼朝と頼家の二代にわたって乳母を務めた家系ですが、北条氏に滅ぼされてしまいます。

その滅ぼされ方が、「一族郎党ことごとく」という有り様だったのです。

能員が怪しまれることを恐れて、武装しなかったことも一因でした。

大河ドラマでは、比企能員を中心とした比企一族の「栄枯盛衰」も見どころとなるでしょう。

歴史学者の中には、「比企の反乱自体、北条氏のでっちあげではないか」と考える人もいるようです。

「先に北条氏を滅ぼそうとしたから」という大義名分をつくったのでは、ということですね。

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足立遠元(あだち・とおもと)

足立遠元
  • 出身地:武蔵国足立郡
  • 享年:70

足立遠元は、頼朝の父親(義朝)平治の乱では、17騎のひとりとして戦っています。

頼朝の親の代から、源氏の家臣ということですね。

石橋山の戦いには参戦していませんが、頼朝が挙兵して武蔵国に入ると、まっさきに参上しています。

そのため、頼朝には早くから重く用いられていました。

  • 壇ノ浦の戦いの前年に、5人の寄人の1人となる
  • 頼朝上洛時に、7人の布衣侍の1
  • 頼朝の御家人ベスト101
  • 「鎌倉殿の13人」の1

と、常に政治の中心にいました。

頼朝亡き後は、御家人同士で激しい権力争いとなりますが、足立遠元の動向についてはよく分かっていません。

70代で病死したと考えられています。

安達盛長(あだち・もりなが) 

https://twitter.com/nhk_kamakura13/status/1468431401498431491
安達盛長
  • 出身地:武蔵国足立
  • 家族:妻の丹後局は、比企尼の長女
  • 享年:66
  • 墓所
    長泉寺(愛知県蒲郡郡)
    伊豆市修禅寺温泉場 梅林登り口

安達盛長は、源頼朝が流罪人だった頃からの家臣です。

妻がかつて都で女房を務めていたため、京の情勢に詳しく、頼朝に情報を伝えていました。

石橋山の戦いに負けた後は、頼朝と共に安房国へ逃走。

早くから忠誠を誓っていたため、頼朝に信頼されていた御家人です。

頼朝が亡くなると、出家して蓮西と名乗りました。

「鎌倉殿の13人」になると、三河国守護の役職を得ます。

また、梶原景時の変では、排除派のコアメンバーの一人となりました。

安達盛長は、梶原景時の変の翌年に亡くなっています。

ブログ主の視点

「鎌倉殿の13人」では、御家人同士が権力争いを繰り広げます。

しかし、安達盛長は

  • 「鎌倉殿の13人」になってまもなく死没
  • 生涯官職につかなかった

ということもあり、北条氏との喧々諤々の争いに巻き込まれることはなかったようです。

八田知家(はった・ともいえ)

八田知家
  • 出身地:下野国
  • 享年:76

八田知家は、保元の乱では、源義朝について参戦してます。

頼朝の親の代から、源氏側だったということですね。

頼朝が挙兵すると、すぐに味方について、下野国の地頭となっています。

しかし、頼朝に断りなく朝廷から「右衛門尉」を賜ったため、頼朝の怒りを買ってしまうことに。

奥州討伐では、東海道大将軍に任ぜられています。

その後、北条義時と共に、従兄弟の多気義幹を陥れて領地を没収。

本拠地を下野から常陸に移しました。

「鎌倉殿の13人」になった後は、「反頼家派」となった阿野全成を討伐しています。

また、八田知家は源義朝の落胤という説もあります。

つまり、源頼朝の異母兄弟ではないかということですね。

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中原親能(なかはら・ちかよし)

中原親能
  • 出身地:京都
  • 家族
    大江広元の兄
    妻は頼朝の次女の乳母
  • 享年:66

中原親能は、相模国の出身者から育てられました。

そのため、源頼朝を幼い頃から知っていたんですね。

中原親能は、頼朝の命で義経が京都へ行くのに同行しています。

中原親能は、京都に知り合いが多かったため、公家との交渉で一役買ったようです。

親能は貴族の文官なので、戦場で戦うのではなく、謀略や折衝の場面で活躍しました。

鎌倉に公文所ができると、政所の公事奉行人として、幕府で働きます。

また、鎌倉と京都をたびたび行き来して、折衝役をしたことから京都守護とも呼ばれていました。

妻は、頼朝の次女・三幡の乳母となります。

中原親能は三幡をとてもかわいがっていたようで、三幡が危篤になると京都から鎌倉へ急ぎ戻っています。

そして、三幡が亡くなった翌日には、出家して「寂忍」と名乗るようになったのでした。

大江広元(おおえ・ひろもと)

https://twitter.com/nhk_kamakura13/status/1470609497118945281
大江広元
  • 出身地:京都
  • 家族:中原親能の弟
  • 享年:77
  • 墓所
    白旗神社隣(鎌倉市)
    阿弥陀屋敷(山形県西村山郡)

大江広元は、朝廷の下級貴族でした。

広元の兄・中原親能が源頼朝と親しかったため、早い時期に京都を離れて頼朝の家臣となっています。

元々、朝廷の文官ですから事務に明るく、鎌倉幕府でも公文所の政所初代別当を務めました。

頼朝の死後は、政子や義時に協力して幕府で働いています。

承久の乱では、息子の親広が朝廷についたため、敵味方となることに。

ブログ主の視点

大江広元は、「鎌倉殿の13人」の中で、かなりうまく立ち回った御家人の一人です。

北条政子と義時の良きサポート役に回ったことで、北条家から睨まれずに済んだことが大きかったろうと思います。

頼朝の死後は、北条義時が実質的な最高権力者でした。

しかし朝廷からは、義時を上回る「正四位」の位を賜っていました。

権力者に逆らわず、自分の実力をいかんなく発揮して、しっかり権力も握っていました。

かなり世渡り上手ですよね。

(また、大江広元は「成人してから後、涙を流したことがない」と後年述懐したと言われています。

冷静沈着で、感情に流されない、論理的な人物だったようです。

三善康信(みよし・やすのぶ)

https://twitter.com/nhk_kamakura13/status/1470608239293353986
三善康信
  • 出身地:京都
  • 家族:母親が頼朝の乳母の妹

三善康信は、書記官を世襲する下級貴族の出身です。

母親の妹が頼朝の乳母だったという縁で、毎月3回京都の情勢を頼朝に知らせていました。

情報参謀的な役割ですね。

三善康信の情報で、頼朝の命が助かったこともあるため、早くから頼朝に信頼されていました。

鎌倉幕府が開かれると、頼朝は三善康信を京都から呼び寄せ、政務補佐を依頼します。

三善康信は、公文所の初代長官として裁判事務を執り行いました。

「鎌倉殿の13人」に選ばれますが、承久の乱の時にはすでに病の身で、まもなく亡くなっています。

二階堂行政(にかいどう・ゆきまさ)

二階堂行政
  • 出身地:京都

二階堂行政と頼朝は親戚でした。

二階堂行政の母親は、熱田神宮の大宮司・藤原季範の妹という由緒ある家系です。

源頼朝の母親は、熱田神宮の大宮司・藤原季範の娘の由良御前です。

つまり母親同士が、叔母と姪という関係だったのですね。

その縁で、二階堂行政は頼朝の家臣となったのでしょう。

奥州合戦では、軍奉行として活躍しています。

鎌倉幕府では、公文所で大江広元に次ぐ地位だったようです。

「行政」という名前だけあって、政治に関わる人生を送ります。

1193年には、五位の民部大夫に取り立てられています。

現代でいうところの、高級官僚というイメージですね。

「鎌倉殿の13人」の一人となりますが、実朝の時代には、年齢的にも中心からは退いていたようです。


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鎌倉殿の13人の名前と経歴まとめ

この記事では、「鎌倉殿の13人」の名前と経歴を解説しています。

13人のメンバーの中で、特にブログ主が注目している人物もまとめています。

まとめ
  • 脚本家の三谷幸喜さんは「サザエとカツオが波平を追い出す物語」と説明している
  • 波平とは、北条時政のこと
  • 悲劇の御家人は、比企能員と和田義盛
  • 自業自得になる御家人は、梶原景時
  • そつなく立ち回ったナンバーツーは、大江広元
  • ラスボスとも言える14人目は、北条政子
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