2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』には、石橋静河さん演じる静御前が登場します。
同じく2005年の大河ドラマ『義経』では、石原さとみさんが演じていました。
吉野山で源義経と別れた後、静御前は鎌倉へ送られます。
義経の子どもを生みますが、男の子だっため、すぐに殺されてしまうのです。
「静御前は、その後どうなったの?」
と気になりますよね。
この記事では、
静御前のその後の生涯はどうなった?
静御前は最後はどうなった?
について、解説をまとめています。
静御前の最後やその後はどうなった?
静御前について、史料として残っているのは『吾妻鏡』だけです。
『吾妻鏡』は、北条家の正史書で、鎌倉にいる時の静御前のことが詳しく書き記されています。
- 義経の居場所について、取り調べを受けた
- 鶴岡八幡宮で舞を舞った
- 義経の子供を産んだが、男児だったので殺された
などの記録が残っているのです。
子供が死んだ後、静御前は母親の磯禅師と共に、鎌倉を去っています。
その後、静御前がどのように生きて、最後どうなったのか、正確なことは分かりません。
しかし日本各地に様々な伝承が残っています。
カテゴライズすると以下のようになります。
病死した
自殺した
出家した
母親の故郷に帰って暮らした
有力者にかくまわれた
共通しているのは、「若くして亡くなったらしい」ということです。
悲しくつらいことが重なったため、心を痛めたでしょうから、気の毒ですね。
以下で、8つの伝承を解説します。
静御前以外の義経の妻や、子供・子孫については別の記事にまとめましたので、ご参照ください。
奥州へ向かう途中、埼玉県で病死?
埼玉県久喜市の静御前墓所にて奥州に向かう途上で義経の死を知り、この地で没したと伝わります(勿論諸説あります)。栗橋駅東口徒歩1分の場所です。 pic.twitter.com/yBFn2o0XDz
— Isuke (@shirononagori) July 17, 2021
埼玉県久喜市には、静御前のものと伝えられているお墓があります。
静御前は鎌倉を出た後、義経のいる奥州へ向かいます。
その途中の現在の久喜市栗橋で、義経の死を知り、高柳寺(現在の光了寺)で出家。
旅の疲れもあって病気となり、そのまま亡くなってしまったという伝承があるのです。
お寺の過去帳には、
- 「巌松院殿義静妙源大姉」という戒名
- 文治5(1189)年9月15日が死亡日
と記されているそうです。
「義静」「源大姉」というのは、確かに源義経と静を連想しますね。
義経がなくなったのは、文治5年閏4月30日(1189年6月15日)。
日にちも整合しています。
事実なら、義経の死から3ヶ月後ですから、すぐ亡くなったことになりますね。
静御前のお墓は、久喜市の指定史跡となっておりHPでも紹介されています。
また、義経の招魂碑や、殺された息子の供養塔もあります。
毎年、命日には追討供養が行われ、10月には「静御前まつり」も開催されるそうです。
久喜市のマンホールの蓋は、なんと静御前です。
【人孔図鑑 vol.2193】
— じぇんてぃる旦那 (@gentil_danna) November 1, 2021
@埼玉県北葛飾郡栗橋町(現久喜市)
この日最後の目的はこの蓋でした。
2010年3月23日をもって廃止された旧北葛飾郡栗橋町の「うすい」用。この地に墓所がある静御前が描かれています。
シンプルですがイイ蓋ですね#マンホールの蓋#マンホール#静御前#栗橋町#久喜市 pic.twitter.com/ShaRCvx5F5
奥州へ向かう途中、新潟県で病死?
新潟県長岡市にも、静御前のお墓と伝わる場所があります。
やはり義経を追って奥州へ向かう途中、病死したという説です。
長岡市のHPによると、静御前は
- 頼朝の兵がいる太平洋沿いの道を通れなかった
- そのため、越後に出て会津を経由するルートを選んだ
- しかし長岡の栃堀で病気となり、亡くなった
- 従者たちは、丘の中腹に静御前を埋葬した
と伝わっているそうです。
2005年の大河ドラマ『義経』では、ゆかりの地を紹介する「義経紀行」で、長岡市のお墓を紹介しています。
絶望して福島県で池に身を投げた?
病死ではなく、自殺説もあります。
義経が死んだことを知って、福島県郡山市の美女池に身投げしたという伝承があるのです。
池というより湖みたいに大きいですね。
静御前を祀ったお堂が作られ、毎年3月に「静御前堂例大祭」が開催されるそうです。
郡山には「22歳で亡くなった」と伝わっているそうで、やはり早逝説となっています。
自殺を思い留まり、香川県で出家した?
香川県東かがわ市では「自殺しようとしたが、思いとどまって出家した」という伝承があります。
静御前は、子供を殺されて絶望し、自殺しようと考えた
しかし母・磯禅師がいたので自殺できなかった
母の故郷(現在の東かがわ市小磯)へ、二人で帰った
母娘ともに、長尾寺で出家した
母親が老衰で亡くなって間もなく、静御前も亡くなった
静御前の享年は24歳だった
香川県には、
- 出家する時に使用した剃刀を埋めた「剃髪塚」
- 母・磯禅師の墓
- 俗世への思いを断ち切るため、義経からもらった鼓を捨てた「鼓ケ淵」
- 静御前の墓や位牌
と伝えられる場所が散在しています。
母親の故郷・奈良県に帰った?
母親の磯禅師の故郷と伝わっているのは、香川県東かがわ市だけではありません。
現在の奈良県大和高田市の磯野も、「故郷ではないか」と言われています。
そのため、静御前も母親の故郷に帰って、生涯を終えたという説もあります。
大分県で息子を生んだ?
Wikipediaによると、福岡県福津市にも静御前のものと伝わるお墓があるようです。
静御前は、現在の大分県臼杵市を経て、宗像氏能の計らいで、福津市に移住した
息子・臼杵太郎を産んだ
息子は、大分の大友氏の家人となった
静御前は、義経を探しに京都へ行った
という伝承があるようなのです。
しかし、義経がいたのは京都ではなく奥州です。
また、京都に行ったはずの静御前のお墓が、福津にあるのもちょっと不自然な気がします。
岩手県で義経の2人目の子供を出産した?
頼朝に殺された息子以外にも、子どもを生んだという説は、他にもあります。
源義経には、「平泉から北海道を経由して中国大陸へ渡り、チンギス・ハーンになった」という伝説があります。
- 北海道へ行く時には、義経と共に静御前もいた
- 北海道へ行く途中、静御前は2人目の子供を出産
- しかし難産で、母子ともに亡くなった
という話があるのです。
静御前が死んだのは、岩手県宮古市という説ですね。
鈴久名にある鈴ケ神社は、静御前を祀ったとされています。
兵庫県で暮らし、47歳で死亡した?
静御前は、頼朝の妹の夫・一条能保に身柄を預けられたという話もあります。
一条家の領地である淡路島の志筑で暮らし、47歳で亡くなったというのです。
この説は、割と長く生きた感じですね。
『鎌倉殿の13人』で静御前はどうなる?
2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』には、静御前も登場します。
石橋静河さんが演じています。
3月6日現在で分かっている分だと、
- 17話(5/1放送)
- 19話(5/15放送)
に登場することが分かっています。
義経は20回で死ぬというあらすじになっています。
なので、21回以降に鎌倉に送られた後の静御前も登場するかもしれませんね。
- 鶴岡八幡宮で静御前が舞を舞う
- 静御前を、政子がいたわる
という話は有名なので、ドラマでも出てくる可能性が高いです。
また、20時43分~45分の枠で「ゆかりの地」が紹介されます。
静御前ゆかりの地として、どこが紹介されるかも気になりますね。
2005年の『義経』では、長岡市のお墓が紹介されました。
今回は久喜市のお墓が紹介されるかもしれません。
詳細が分かりましたら、記事を更新します。
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【キャスト】
静御前のその後と最後まとめ
子どもを失い鎌倉を出た後、静御前がどうなったかは正確には不明
静御前のその後については、日本各地に伝承がある
伝承は「病死した」「自殺した」「出家した」「母の故郷で暮らした」「有力者にかくまわれた」など様々ある
静御前が早逝したという伝承が多い