2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、第26話で源頼朝が亡くなります。
ドラマでは、馬に乗っている時に体調が悪くなり、落馬して数日後に亡くなりました。
「なぜ急に具体が悪くなった?」
「結局、死因は何だったの?」
と気になった人も多いでしょう。
頼朝の死因には諸説あります。
この記事では、
- 源頼朝の死因と死亡年齢は?
- ドラマで、落馬する前に急に体調悪くなったのはなぜ?
について、解説と考察をまとめています。
源頼朝の死因と死亡年齢は?
源頼朝の死亡年齢は53歳
まずは、源頼朝が何歳で死んだのかを確認しておきましょう。
頼朝は、1147年5月生まれで、1199年2月に亡くなっています。
満年齢でいうと51歳ですね。
昔ながらのかぞえ年だと52歳です。
鎌倉時代の平均寿命は、24歳です。
かなり早いですよね!
これは子供のうちに亡くなる人が多かったため、全体的に年齢が低いと考えられます。
貴族だと、50歳前後が平均寿命だったようです。
そのため、当時の感覚からすると「すごく早く亡くなった」という感じはないのでは。
しかし、前日まで元気にしており、急死したため周囲への衝撃は大きかったようです。
【死因1】落馬説
源頼朝の死因は諸説ありますが、最も有力とされているのが落馬説です。
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも、落馬説をアレンジして演出しています。
落馬説が最も有力とされているのは、北条家の正史書『吾妻鏡』に記載されているからです。
『吾妻鏡』の死因の記録はどうなってる?
しかし、不思議なことに、頼朝の死が『吾妻鏡』に出てくるのは、死後12年もたってから。
頼朝が落馬したのは、1198年の年末です。
(大河ドラマでは、12月27日となっています)
亡くなったのは、年が明けた1199年1月13日。
しかし、『吾妻鏡』は1198年12月の記録がありません。
というか、1196~1198年の3年間の記録が、すっぽり抜けているのです。
1995年12月の次は、いきなり1199年2月になっています。
そして、源頼家が跡を継いだという記録から始まります。
頼朝の死に際がどうだったかなどは、一切触れられていません。
頼朝の死因について『吾妻鏡』に書かれているのは、1212年2月28日です。
相模川の橋が腐って痛んでいるので、修理してほしいと三浦義村が頼んだという記録が残っているのです。
依頼を受けて、北条義時、大江広元、三善康信が「どうする?」と話し合います。
『吾妻鏡』の現代語訳を引用してみましょう。
去る建久九年に稲毛重成法師がこの橋を新造して供養を行った日、
結縁のために故将軍家(源頼朝)が出かけられ、帰りに落馬されて間もなく亡くなられた。
引用:吉川弘文館『現代語訳 吾妻鏡7』五味文彦・本郷和人
そのため3人は「縁起が悪いから、無理に修理しなくてもいいと思います」と、実朝に進言するのです。
しかし実朝は、
- 頼朝公が亡くなったのは、武家が実権を執って20年もたってから
- 官位を極めた後なので、不吉とは言えない
- 橋は要所にあって、庶民の往来には大切
と、理路整然と述べ、速やかに修理するよう指示しているのです。
御家人たちが縁起という占い的なことを気にするのに対し、実朝は非常に合理的・理性的なのが印象的ですね。
この『吾妻鏡』の「落馬」という記録が、頼朝の死因として最も有力とされています。
ではなぜ、12年も死因が記録されていなかったのでしょうか?
個人的な推測ですが、
- 落馬は武士の恥なので、落馬時点では記録されなかった
- 急死だったため、ばたばたして記録する余裕がなかった
- 亡くなった時も、頼朝の恥が後世に伝わらないよう記録しなかった
- 12年後には、そんなことを忘れて記録してしまった
とか、そんなところなのかも?と思いました。
『吾妻鏡』は北条家の正史書なので、北条関係に不都合なことなどは省略されたり、事実が変えられて記録されていることもしばしばなのです。
武士が、しかも征夷大将軍が落馬で死ぬというのは、ちょっと情けない感じがしますよね。
しかも、弟の義経が「鵯越の逆さ落とし」で有名ですから、なおさら比較されそうです。
\死因が載ってる巻/
【死因2】糖尿病説
頼朝の死因としては、糖尿病説もあります。
公家の近衛家実の日記『猪隈関白記』に、頼朝の死因は「飲水の病」と書かれているのです。
糖尿病は喉が渇いて水をよく飲むようになるので、当時は「飲水の病」と言っていたんですね。
しかし、頼朝に糖尿病の症状がでていたという記録がないため、可能性は低いと考えられています。
【死因3】尿崩症説
糖尿病に似た死因として、尿崩症説も挙がっています。
これは、落馬した時に頭を打って、脳の中枢神経を傷めたために、
ホルモンバランスを崩して、尿崩症になったのではないか、という説です。
尿崩症になると尿の量が増えるので、水を大量に飲むことで、血中のナトリウム濃度が低下します。
鎌倉時代だと、治療法がないため亡くなった可能性があるのでは?と言われています。
【死因4】亡霊説
南北朝の史料『保暦間記』では、「源義経や安徳天皇らの亡霊を見て気を失い病に倒れた」と記録されています。
中世だと、いかにも人が噂しそうな話ですが、現代人からすると合理性に欠ける説ですよね。
【死因5】溺死説
鎌倉時代の軍記物語『承久記』には、「水神に領せられ」と書かれています。
また、頼朝落馬したのは相模川の橋の落成式の帰りでした。
相模川は「馬入川」とも呼ばれているため、「頼朝の馬が川に入って暴れて、溺死したのでは?」という説もあるようです。
【死因6】暗殺説
曽我兄弟の敵討ちの影響もあるのかもしれませんが、頼朝暗殺説もあります。
けれど、根拠が見当たらないため、可能性はかなり低そうです。
【死因7】誤認殺傷説
愛人の家へ行く途中に、不審者と間違われて殺されたという説もあります。
頼朝は、たびたび浮名を流すことで知られているので、このような説が出たのでしょう。
けれど、誰に会いに行ったのか、誰に殺されたのかという根拠がないため、可能性はかなり低そうです。
『鎌倉殿の13人』では落馬前に体調不良になったのはなぜ?
頼朝は落馬前に脳梗塞を起こした?
さて、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、第25話のラストで源頼朝が落馬します。
公式ガイドブックのあらすじには、次のように書かれています。
突然、頼朝は右手にしびれを感じ、手にした手綱を取り落とした。
「どうされました」
盛長が心配そうに声をかけた。
頼朝のしびれは右手から右半身に広がり、頼朝の頭に鉦(かね)の音が大きく響いた。
恐怖に上げた悲鳴は声にならない。
意識が遠のいていき、どっと馬から落ちた。
引用:『鎌倉殿の13人』公式ガイドブック後編
ドラマの映像だけでは分かりにくいかもしれませんが、突然具合が悪くなって、落馬したという演出なんですね。
「右手がしびれて、右半身に広がった」ということは、脳卒中の症状ではないかと思います。
脳卒中には
脳梗塞(脳の血管が詰まる)
脳出血(脳の血管が破れる)
くも膜下出血(動脈瘤が破れる)
の3種類があります。
脳出血やくも膜下出血の場合、頭痛もします。
特にくも膜下出血の場合は、頭にかなりの激痛がはしるので、頭を抱えると思うんですよね。
また、年末に落馬して翌年の1月13日に亡くなったとなると、脳梗塞という可能性が一番高いのでは。
ということで、個人的には
- 帰り道に、頼朝は脳梗塞になった
- 半身まひとなり、気を失って落馬した
- 当時は治療方法なく、約2週間後に死亡した
という演出にしたのかな?と思いました。
なぜ落馬前に病気という演出にした?
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、頼朝が落馬する前に「急病になって気を失った」という演出にしたのでしょうか?
おそらく、三谷幸喜さんは「頼朝に、なるべく恥をかかない死に方をさせたかった」のではないでしょうか。
あるいは、「どうして落ちたんだろう?何かあったんじゃない?」と想像をふくらませたのかもしれません。
ドラマを観ていると、三谷幸喜さんは、基本的に嫌われないキャラクター設定をしているように思います。
歴史的には、一番嫌われていそうな梶原景時さえ、ドラマでは「義経の一番の理解者」みたいになっています。
頼朝も嫌う人は多いですが、かなりチャーミングで憎めないキャラになってますよね。
頼朝は、一応武士で、征夷大将軍です。
第26話では、和田義盛に
「馬に振り落とされたらしいぜ、武士の棟梁が情けない」
と多くの人の本音を代弁させつつ、「落ちる前に病気だった」という演出で、頼朝のプライドを救っているように思いました。
何にせよ、『鎌倉殿の13人』における大泉洋さんの頼朝は、愛されキャラだったので、頼朝ロスになる人が多そうですね。
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源頼朝の死因と死亡年齢まとめ
- 源頼朝の享年は51歳(かぞえで52歳)
- 死因は諸説あるが、落馬説が最も有力
- 大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、頼朝は気を失って落馬したという演出がされている
- ドラマで気を失った理由は、脳卒中と考えられる