伝説のバンドQUEENのリード・ボーカルだった、フレディ・マーキュリー。
映画『ボヘミアン・ラプソディ』を観て、「フレディは何人?」「フレディの出身地はどこ?」「どうして名前をフレディ・マーキュリーにしたの?」と思った人も多いでしょう。
この記事では、フレディ・マーキュリーの
- 出身地や幼年期
- インドの寄宿学校時代
- フレディ・マーキュリーの名前の由来
- メアリー・オースティンにいくら遺産相続したのか
- 最後の日々と死因
などについて、その生涯をくわしく解説しています。
なお、この記事は
- グレッグ・ブルックス著『フレディ・マーキュリー 自らが語るその人生』
- ピーター・フリーストーン著『フレディ・マーキュリー 華麗なるボヘミアン・ラプソディ』
- インドの寄宿学校時代の同級生インタビュー(Scroll.in紙/2016年9月5日記事)
などを参照しています。
【フレディ・マーキュリー】出生と幼年期
6歳までのフレディ・マーキュリー
- 本名:ファルーク・バルサラ
- 生年月日:1946年9月5日
- 死没日:1991年11月24日(享年45歳)
- 出生地:ザンジバル島(タンザニア)
- 宗教:パールーシー教徒(ゾロアスター教)
フレディ・マーキュリーは、イギリスの保護国だったタンザニアのザンジバル島で生まれます。
フレディの出生地や出身地などを地図にまとめてみました。
出身地は、幼少年期を過ごしたインドとされています。
両親は、インド人で、パールーシー教徒(ゾロアスター教徒)。
父親のボミ・バルサラは、ザンジバル最高裁判所の出納係でした。
国家公務員の会計士だったのですね。
フレディの家族は、おじがザンジバルの海辺にもっている別荘で暮らしていました。
フレディは、自伝『フレディ・マーキュリー 自らが語るその人生』で、幼少期の自分について「僕は不安で仕方なかった。たぶんちょっと過保護だったからだと思う」と語っています。
出身地インドでのフレディ(寄宿学校時代)
両親は厳しい人たちだったので、7歳になるとインドのイギリス式寄宿学校(セント・ピーター・スクール)に入れられます。
フレディ自身は、インド時代については、積極的に語りたがりませんでした。
寄宿学校時代に、一緒にバンドを組んでいた同級生たちのインタビューを見つけたので、どんな学生だったか、紹介します。
- マハーラーシュトラ州パンチガニの全寮制の学校だった
- フレディは、はじめは合唱団に入っていた
- 女の子にモテたくて12歳で「ヘクティス」というバンドを組んだ
- フレディは、ピアノとボーカル
- バンドは地元で大人気
- バンドで学校の資金調達もしたので、厳しい先生たちも渋々認めてくれた
- フレディは非常に内向的だったが、歌うと人が変わった
- あだ名は「バッキー(出っ歯)」だった
- フレディはスポーツマンで、ホッケーや陸上も得意だった
- フレディが、ボクシングの試合で打ちのめされ、血まみれになったことも
- 12歳の時は、勉強で最優秀オールラウンダー賞を受賞
- しかしその後は、成績はどんどん下がった
- フレディは、クラシックもロックもやっていた
- 同級生の男子を「ダーリン」と呼ぶ癖があった
インドの寄宿学校にいた時のフレディは、内向的な性格ながらも、音楽にスポーツにと、かなりアクティブな生徒だったようです。
音楽の先生からも才能を認められ、クラッシック方面に進学するよう勧められていたそうですが、フレディはロックを選びます。
【フレディ・マーキュリー】クイーン結成と名前の由来
17歳になると、フレディはザンジバル島に帰って、家族と暮らし始めます。
しかし革命が起こり、治安が悪くなったため、家族は1964年にイギリスへ移住。
映画では、誕生日パーティの時に、フレディの父親が「パールシーは迫害された」と言っていましたね。
フレディは、イーリング・アートカレッジで、グラフィックデザインを学びました。
卒業後は、アルバイトをしながらバンド活動し、「スマイル」の新ボーカルとなります。
1970年にバンド名をQUEENに改名。
バンド名はずっと前から、フレディが考えていたそう。
1973年にフレディが作詞作曲した「マイ・フェアリー・キング」をリリースした後、フレディ自身も「フレディ・マーキュリー」に改名します。
名前の由来は、
- インドの寄宿学校時代の呼び名
- 「マイ・フェアリー・キング」の歌詞
- おとめ座の守護星・水星
の3つです。
インドの学校時代、フレディは「出っ歯」とあだ名をつけられたので、対抗するように自身を「フレディ」と名乗っていました。
「なりたい自分」というイメ―ジが明確にあったフレディは、古い名前を捨て去ります。
「マーキュリー」とは、水星のこと。
フレディはおとめ座で、守護星にあたるのです。
ブライアン・メイによれば、「マイ・フェアリー・キング」の歌詞から、名前を付けたそう。
歌詞のこのくだりですね。
”Mother Mercury Mercury Look what they’ve done to me”
「母なるマーキュリーよ、彼らが私に何をしたか見てください」
ブライアン・メイは、はじめは冗談かと思っていたそうです。
けれど、フレディらしい美意識を感じる名前ですよね。
【フレディ・マーキュリー】性格や音楽性は?
フレディの学生時代の友人は、「とても内向的な性格だった」と証言しています。
フレディ自身は、自分でどんな性格だと思っていたのでしょう?
自伝では次のように自己分析しています。
- すぐに恋に落ちて、結局いつも傷付いてる
- お人好し
- 極端な性格で、時々破壊的になる
- 情緒過剰になることがある
- 軋轢をたくさん生むため、気楽に付き合える人間ではない
- 世界一虚栄心が強い
- 買い物が大好き
- ルーティンが嫌い
フレディの自己分析からすると、なかなかインパクトのある性格だったことが伺えます。
大スターになって世界ツアーをするというのは、フレディの夢でした。
けれど、実際にそうなるとルーティン嫌いのフレディにはつらかったようです。
映画でも、スタジオレコーディングして、世界ツアー回って、終わったらまたレコーディングして、というのが嫌になったと言ってましたね。
また、フレディは 自分の音楽性について、自伝の中で次のように語っています。
「僕が書く曲は、思うに、基本的に……消耗品」
「使い捨てのポップ。メッセージソングは書きたくない。政治的なモチベーションは僕には無いからね」
「僕の曲は市場向けのラブソング」
そして「僕が人生に望んでいたのは、たくさんお金を稼いで使うこと、それだけだった」と言ってるんですね。
ビッグスターとして後世に名を残すというような名誉心は、実は特になかったようなのです。
そんなフレディの曲が、死後数十年たっても、世界中で歌い継がれているのは、ちょっと逆説的ですね。
フレディは実際、使いきれないくらい稼ぎ、それを目当てにたくさんの人が寄ってきました。
そのため、裏切られた気持ちになることも多く、警戒心も強かったようです。
【フレディ・マーキュリー】大の親日家だったフレディ・マーキュリー
QUEENは、有名になると世界ツアーをよく回っていました。
日本にも何度も来ていて、フレディは大の親日家として知られています。
日本を回るのは毎回楽しかったなあ。特にあのゲイシャガールたちと一緒だと――それとボーイズとも。
すべてが最高だった。ライフスタイルも、人も、芸術も。素晴らしい!明日にでも帰りたいよ。
引用:『フレディ・マーキュリー 自らが語るその人生』
QUEENは、日本で大歓迎され、空港ではフライト情報のアナウンスを止めて、QUEENの曲を流してくれたそう。
メンバー一同、大感激だったようです。
また、日本滞在中はメンバーそれぞれにボディガードがついていました。
フレディの担当は、伊丹久夫さんという警備会社の社長さん。
フレディのボディガード
— panda (@PANDA49153599) September 18, 2020
伊丹久夫さん
「フレディさんが飛行機で着いて税関を抜けてやってくる。そしてあの眼で見つめられると感動するというのかな…、やりがいのある仕事をしている喜びと充実感を感じた」
フレディマーキュリーファイルより pic.twitter.com/HEqbvOUnzl
フレディの口ひげは、伊丹久夫さんを真似したのではないかという都市伝説もあります。
伊丹久夫さんは、マイケル・ジャクソンが来日した時のボディ・ガードも務めるなど、業界では有名な人でした。
買い物好きなフレディは、来日すると和風のメッセージカードを、山のように買っていたそう。
日本人としては、嬉しいですね。
【フレディ・マーキュリー】メアリー・オースティンにいくら遺産相続した?
フレディとメアリー・オースティンが出会ったのは、フレディ24歳、メアリー19歳の時。
二人は出会ってすぐに親密になり、一緒に暮らし始めます。
フレディが27歳の時にプロポーズしますが、QUEENの活動が忙しくなり、なかなか会えない状態に。
30歳になると、フレディはメアリーに「バイセクシャル」だと告白。
メアリーからは「バイセクシャルではなく、ゲイだと思う」と言われ、恋人としての関係は終わります。
しかし、二人がすごいのは、その後も生涯にわたって、親友であり続けたこと。
自伝の中で、フレディはメアリーについて、次のように語っています。
僕らの友情は純粋で、最高水準のもの。本能的なものなんだ。
メアリーとはとても太い絆で結ばれている。彼女には他の誰よりも心を開ける。
ふたりの間には山も谷もあったけれど、それがふたりの関係をいっそう強いものにしてくれた。(中略)メアリーを除けば、僕には本当の友達はいない。
引用:『フレディ・マーキュリー 自らが語るその人生』
バンドメンバーについては「太い絆はない」とも言い切っています。
もともと結婚するつもりだったこともあり、フレディは、メアリーを深く傷つけたことに罪悪感を持っていました。
通常、妻だと法的に遺産の半分を相続します。
なので、亡くなる何年も前から、フレディは「メアリーに遺産の大半を譲る」と明言していました。
ミラー紙によると、フレディの遺産は推定3800万ポンドでした。
当時レートで日本円にして約90億円です。
半分を受け取ったので、メアリーは45億円を相続したことになります。
また、フレディの印税50%の受取人でもあるので、現在も財産は増え続けているのです。
2021年現在のメアリーの純資産は、1億2000万ドル(約132億円)と言われています。
ちなみに、フレディの最後の恋人はジム・ハットンでした。
映画『ボヘミアンラプソディ』では、クリスマス・パーティで出会ったことになっていますが、事実は違います。
馴れ初めや遺産相続などについては、別の記事にまとめましたので、ご参照下さい。
【フレディ・マーキュリー】死因はエイズ合併症の気管支肺炎
フレディ・マーキュリーは、1991年11月24日に、エイズの合併症である気管支肺炎で亡くなります。
享年45歳でした。
フレディの付き人だったピーター・フリーストーンが、後年出版した『フレディ・マーキュリー 華麗なるボヘミアン・ラプソディ』で、最後の日々をくわしく書いています。
- フレディの病状は、日々悪化していた
- 9月になると、フレディの視力が急速に衰えた
- 最後は、病院ではなく自宅療養だった
- 死ぬ3週間前から、服薬を一切中止
- 食欲増進剤もやめたため、食べられなくなり衰弱が加速
- フレディは、延命措置を拒否
- 亡くなる前日に、エイズを公表
- 亡くなった当日、昏睡状態になったが、医師は「数日はもつ」と診断
- そのため、フレディの家族にもそう伝え、臨終に間に合わなかった
- 午後6時48分に、フレディ永眠
- フレディは火葬を希望
- エイズという感染症だったため、法律により遺体は保護バックに収納
- 親族など近しい人たちだけで、ウエスト・ロンドン火葬場で荼毘にふした
長い間伏せていたエイズについて公表したのは、タブロイド紙がすっぱ抜くのを阻止するためだったそう。
いずれ分かるのなら、ということだったようです。
ゾロアスター教は、鳥葬・風葬が風習です。
遺体を原野に置いて、鳥が食べたり風化したりするのに任せるのですね。
しかしさすがに、ヨーロッパなどでは法的に禁止されているため、火葬にするのが一般的。
ゾロアスター教は、別名「拝火教」とも呼び、火を神聖で善なるものと信仰しているからでしょう。
フレディ亡き後、QUEENのバンド活動は停滞してしまいます。
やはり、フレディという存在は、とても大きかったのですね。
バンドメンバーのプロフィールやその後については、「登場人物相関図」の記事にまとめましたので、ご参照ください。
【ボヘミアンラプソディ】解説・考察記事一覧
【フレディマーキュリー】出身地や生い立ち・名前の由来などまとめ
QUEENのリード・ボーカルだったフレディ・マーキュリーについて、解説しました。
- フレディは、タンザニアのザンジバル島の生まれ
- 7歳から、インドの寄宿学校で学んだ(出身地はインド)
- 出っ歯というあだ名が嫌で、自らを「フレディ」と名乗っていた
- おとめ座の守護星・水星と、作詞作曲した「マイ・フェアリー・キング」の歌詞から、名前をつけた
- フレディは、大の親日家だった
- 結婚するはずだったメアリー・オースティンに、遺産の半分を相続
- 死因は、エイズの合併症・気管支肺炎で、享年45歳
というのが、この記事のまとめです。
U-NEXTでは、QUEENのライブ&ドキュメンタリーを配信しています。
- 『クイーン ストーリー&ソングス』
- 『クイーンヒストリー1973-1980』
- 『プリンス・トラスト・コンサート2010』(クイーンも出演)
- 映画『ボヘミアン・ラプソディ』
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