大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、源頼家が安達景盛の妻ゆうを気に入って略奪しようとし、大問題になります。
頼家の不倫は歴史的にも有名で、北条家の正史書『吾妻鏡』にも詳しく記されています。
しかし、ドラマと史実では違うところもあるんですよね。
この記事では、
- 安達景盛の妻ゆうは、どんな女性?
- 源頼家がゆうを略奪した経緯
- 北条政子の名裁き&お説教
- 大河ドラマと史実の違いは?
について、わかりやすく解説します。
【鎌倉殿の13人】ゆうと源頼家の不倫の顛末は?
『鎌倉殿の13人』の7月17日の放送回(28話)では、源頼家の不倫問題で騒動が起きます。
頼家が、安達景盛の妻ゆうに横恋慕するのです。
まずは、『吾妻鏡』を元に、頼家の略奪愛について解説します。
安達景盛の愛妾・ゆうは美女だった
安達景盛は、安達盛長の嫡男です。
安達盛長は「鎌倉殿の13人」の一人、つまり宿老ですね。
なので、安達親子は鎌倉幕府では中心メンバー的な御家人でした。
ドラマの22話では、幼少期の景盛が登場しています。
景盛が孤児の鶴丸をからかって、怒った義時の息子がぶん殴る、というシーンがありました。
あの時の、ちょっとぽっちゃりした男の子が成長すると、安達景盛になります。
『吾妻鏡』によると、1199年7月16日に、景盛は三河国へ出張します。
安達家が守護役を務めている三河国で、問題が起きたからです。
何度も「問題が起きたから来て」と督促されていましたが、景盛は行きたがりませんでした。
『吾妻鏡』を見てみましょう。
景盛はこのところしきりに使節を固辞していたが、これはもしかすると、去る春の頃に京都より招いた美女との片時の別離を悲しんでのことかという。
しかし三河国はすでに父が奉行する国なので、逃れることはできない、との決定が下り、ついに出発したという。
引用:吉川弘文館『現代語訳 吾妻鏡6』五味文彦・本郷和人
この「春に京都から招いた美女」が、愛妾ゆうです。
ドラマでは、妻とされていましたが、実際には愛妾でした。
また、ドラマでは「ゆう」という名前ですが、歴史的には名前は伝わっていません。
景盛の母親は、かつて京で女房を務めていました。
そのため、安達家は京に知り合いが多く、情勢にも詳しかったのです。
だから、景盛も京の女性と知り合ったのでしょう。
出張を何度も拒否していたことから、景盛はゆうのことをかなり気に入っていたようです。
そして、恐らくこの時点で、頼家がゆうに横恋慕していることも知っていたのでしょう。
「家を空けたくない」と思いつつ、かなり渋々出かけたことが分かります。
源頼家がゆうに横恋慕して略奪愛
安達景盛が三河国へ出かけた4日後の7月20日、頼家はさっそく動きます。
明け方、まだ人が起きてこない時間に、中野能成にゆうを拉致させているのです。
そして、ゆうを小笠原長経の家に住まわせます。
ドラマでは、ゆうは頼家を誘惑する悪女みたいになってましたが、ドラマの演出ですね。
夜明け頃に、源頼家は中野能成を遣わして、みだりに景盛の妾女を召して、小笠原長経の宅に移し住まわせられた。
ご寵愛の様は特に甚だしかったという。
これは数日来、好色の思いを抑え難かったため、御書を送られ、使者の往復が数度に渡ったのに、全く承諾しなかったのでこのようになったという。
引用元:前掲に同じ
どうやら、景盛が出張したのを見計らって、手紙を送ったようです。
「うちにおいでよ」「無理です」みたいなやりとりを何度かしたんでしょうね。
しびれを切らした頼家が、ゆうの寝込みを襲って拉致したというわけです。
自宅に帰さなかったわけですから、完全に監禁状態ですよね。
そして、7月26日には、
- ゆうを北向御所に移した
- 頼家の側近5人以外は、ゆうの所に出入り禁止にした
という対応をしています。
8月18日に、安達景盛が出張から帰ってきます。
当然、頼家を恨みますよね。
噂は早くて、翌日の8月19日には「景盛がすごく恨んでる」という話が、頼家の耳に入ります。
頼家が「景盛を誅殺せよ」と命じたため、側近たちが安達館におしかけます。
さらには、鎌倉中の御家人たちが集まって、大騒ぎになったのです。
北条政子が息子の略奪愛に名裁き
騒ぎを聞きつけた北条政子は、大急ぎで安達館へ出向きます。
そして、頼家に次の事を言い渡します。
- 頼朝と三幡が亡くなって間もないのに、合戦とは何事か
- 安達景盛は、頼朝から信頼されていた御家人
- 景盛がどんな罪を犯したか言いなさい
- 事情も聞かずに誅殺するなら、必ず後悔する
- それでも追討するなら、まず私が矢に射られよう
政子は、自分の身を盾にして安達景盛を守ったのでした。
頼家は、渋々と兵たちを退けます。
『吾妻鏡』には「鎌倉中が騒動となり、万人が恐怖しないことはなかった」とあります。
頼家の暴君ぶりに、御家人たちが震撼したんですね。
翌日の8月20日も、政子はそのまま安達館に留まっています。
そして、安達景盛に次のように言っています。
昨日は計らいによって、一旦は頼家の行き過ぎを止める事ができたが、私はすでに老齢に達しており、後々の遺恨は押さえることができないでしょう。
汝は野心がないとの起請文を頼家に献じなさい。
引用元:前掲に同じ
大岡越前みたいな名裁きですよね。
景盛はその場で起請文を書き、政子が御所に持ち帰ったのでした。
政子が頼家に激怒で大説教
政子は御所に着くと、頼家に起請文を渡します。
それから、頼家にさらにガッツリお説教をしたのです。
面白いので、そのまま引用します。
「昨日、景盛を誅殺しようとされたのは、あまりに軽はずみで人の道に反しています。
総じて今の形勢を見ると、全く天下を守護するには用い難いものです。
政治に飽きて民の愁えを知らず、妓楼で楽しんで人々の非難を顧みないからです。
また召し使う者と言えば、全く賢人ではなく、多くの佞臣(ねいしん)の類です。
まして源氏は幕下(頼朝)の一族であり、北条は私の親族です。
そのため先人(頼朝)はしきりに恩情を施され、常に座右に招かれていました。
しかし今、彼らに褒賞はなく、そればかりか皆が実名で呼ばれるので、それぞれ怨みを残しているという噂があります。
つまるところ、事に臨むにあたっては、よくよくお気をつけにさえなれば、末代であっても、秩序が乱されるようなことはありません」
引用元:前掲に同じ
かなりきつく、雷落とすようにして説教していますよね。
頼家の周りには、とりまき連中しかおらず、鎌倉殿に強く意見できるのは、政子だけなのでしょう。
政子からすると、1月に夫が急死し、4月に次女が病死し、精神的にかなり参ってたはず。
さらには、夏に長男が色恋沙汰で問題を起こし、やるせなかったでしょうね。
『吾妻鏡』には、政子の説教の後、略奪愛問題について書かれていません。
おそらく、ゆうは安達の家に帰されたのでしょう。
大河ドラマと史実の違いは?
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、7月17日(28話)の放送回で、頼家がゆうに横恋慕するシーンがあります。
ドラマでは
頼家が、ゆうに横恋慕する
梶原景時が、安達親子との話し合いの場をもうける
頼家が「ゆうをくれ」と頼み、断られる
頼家が、安達親子の首をはねろと命令
景時が懸命に頼家をなだめる
話を聞いた政子が、「いい加減にしなさい」と一喝
という演出になっています。
ドラマでは、だいぶソフトな演出になってますよね。
ドラマでは、頼時が「人の道に反しております」と進言しますが、実際には政子の言葉だったんですね。
そもそも、北条頼時が頼家の側近の一人、ということ自体が、ドラマの演出です。
『吾妻鏡』には、梶原景時が仲裁しようとした話は出てきません。
また「景盛の留守中に、嫌がる愛妾を側近に拉致させて監禁」なので、かなり強引ですよね。
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【キャスト】
【鎌倉殿の13人】ゆうと源頼家の略奪愛まとめ
源頼家は、安達景盛の留守中に、愛妾を拉致して御所に監禁した
安達景盛が恨んでいるという話を聞いて、頼家は誅殺しようとした
北条政子が騒ぎを聞きつけて、大急ぎで仲裁し、頼家を叱った