大河ドラマ『鎌倉殿の13人』のタイトル画像

2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、中川大志さん演じる畠山重忠が登場します。

忠心厚い御家人の鑑のような人物です。

しかし、「畠山重忠の乱」と呼ばれる事件で、実に悲しい非業の死を遂げるのです。

この記事では、

・畠山重忠の死因は?

・なぜ畠山重忠は殺されたのか?

・北条義時も実は討つつもりだった?

について、解説をまとめています。

畠山重忠の死因は?

https://twitter.com/nhk_kamakura13/status/1470243335256346624

結論を言うと、畠山重忠は北条時政に陥れられ、死にました。

最期は二通り伝わっています。

畠山重忠の死因

・愛甲季隆の矢に討たれた

・自害した

いずれにしても二俣川の戦いに敗れて、死んでいます。

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畠山重忠の最後はどうなった?

https://twitter.com/nhk_kamakura13/status/1467712910101200898

畠山重忠が北条時政に陥れられた理由は?

なぜ、畠山重忠は討たれたのでしょうか?

理由は、北条時政に陥れられて、謀反の疑いをかけられたからでした。

畠山重忠は、源頼朝の代から「清廉潔白な忠臣」として知られていました。

そんな重忠が、謀反の疑いをかけられたのには、こんな経緯がありました。

1204年、源実朝が3代目鎌倉殿となり、京から正室を迎えることになりました。

正室を迎えるために、御家人たちが上洛します。

歓迎の酒宴の席で、畠山重忠の息子・重保と、平賀朝雅が言い争いになります。

その翌日、畠山重保と一緒に上洛していた北条政載が病気で急死するのです。

北条政載は、時政とりく(牧の方)の息子でした。

そして平賀朝雅は、りくの娘婿でした。

平賀朝雅は、りくに重保に悪口を言われたと讒言します。

りくは、畠山親子に謀反の疑いがあると言って、時政に畠山を討つよう頼むのです。

『吾妻鏡』によると、時政は、息子の義時と時房に相談します。

義時たちは、畠山重忠が謀反を起こすはずがないと反対。

しかし、りくの兄に「りくが継母だから仇をしようとおもってるのだろう」と因縁をつけられ、重忠討伐に同意したということになっています。

畠山重忠が討たれるまでの経緯

https://twitter.com/nhk_kamakura13/status/1497912153726148611

まず、時政の娘婿の稲毛重成が、実朝に「畠山親子が謀反を企んでいる」と進言。

実朝は、畠山を討つように命じます。

しかし、実朝はこの時13歳の少年です。

執権の北条時政が言いくるめたとしか思えませんね。

ちなみに、稲毛重成は畠山重忠のいとこです。

まず息子の畠山重保が討たれた

討伐が命じられると、まず息子の重保がだまされて討たれます。

稲毛重成に「謀反人がいるから来い」とだまされて、畠山重保は一緒に由比ガ浜に駆けつけます。

そして三浦義村たちに取り囲まれてしまったのです。

「謀反人とは自分のことだ」と気づいた重保は、奮戦しますが味方は3人。

多勢に無勢で討ち取られてしまったのです。

畠山重忠もだまされた

一方、畠山重忠も「鎌倉に異変あり、至急参上されたし」と嘘を言われて呼びつけられていました。

130騎ほど率いて、鎌倉を向かう途中の二俣川(現在の横浜市)で、数万騎の軍勢とかち合います。

北条義時を大将軍とする討伐軍でした。

多勢に無勢でしたが、4時間の激戦となった末に、畠山重忠は最期を遂げたのでした。

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北条義時の思惑と時政のその後は?

https://twitter.com/nhk_kamakura13/status/1467711651847749633

北条義時も実は討つ気満々だった?

北条家の正史書『吾妻鏡』では、畠山重忠を討った後の義時の様子が書かれています。

「悲しみの涙を禁じ得ない」とか「謀反を企てたというのは虚偽だ」とか言ってます。

しかし、史実を慎重によく見てみると、「変だな…」と思うことがあります。

重忠の財産はこうなった

・政子が、畠山氏の所領を御家人に分け与えている

・政子の女房たちにも、畠山の領地が分け与えられている


・畠山重忠が亡き後、北条時房が武蔵国の守護になった

畠山親子は無実だと言いながら、所領は取り上げているのです。

かなり奇妙な話です。

頼朝時代に、上総広常も謀反を疑われて、梶原景時に討たれました。

しかし死後に謀意はなかったと分かって、所領はすべて遺族に返されています

比べて、畠山重忠は、政子のお付きの女房にまで土地を与えられているのです。

また、畠山重忠が治めていた武蔵の国の守護になったのは、義時が信頼する弟の北条時房でした。

北条の都合のいいようになったんですね。

これらのことを考えると、「義時も政子も、実は畠山を討つ気満々だったのでは?」と思ってしまいます。

(あくまで、個人的な推量です)

『吾妻鏡』は、北条家の正史書ですから、北条家に都合のいいようにしか書いてありません。

畠山重忠は、時政の娘婿でした。

政子や義時からすると、義理の兄弟ですよね。

娘や妹の夫を殺し、領地を取り上げているのです。

さすがにすべてを取り上げるのは気がとがめたようで、重忠の妻にも少し領地は残されたようですが…。

重忠の妻は再婚したので、畠山氏は滅亡してしまったのでした。

北条時政とりくも追放される

畠山重忠を落とい入れて殺害した後、時政とりくは実朝を廃して、りくの娘婿の平賀朝雅を将軍にたてようと企みます。

これにより、義時と政子から鎌倉を追放されることになるのです。

自業自得とは言え、追放だけで済んでいるのは、かなり甘い処分ですよね。

ちなみに、平賀朝雅は、義時と政子の命を受けた山内首藤通基によって殺害されています。

義時や政子からすると、「親を誅殺する」というのは、背徳感や罪悪感が強くて、できなかったのかもしれません。

時政とりくは、伊豆の修善寺に隠居して、以後は二度と政治に復帰できませんでした。

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          畠山重忠の死因まとめ

          まとめ

          ・畠山重忠の死因は、謀反の疑いをかけられて殺害された(自害説あり)

          ・平賀朝雅(りくの娘婿)と畠山重保(重忠の息子)の言い争いが発端

          ・恨んだりくが、時政に畠山親子を討つよう頼んだ

          ・時政とりくは、伊豆へ追放された

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