2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、中川大志さん演じる畠山重忠が登場します。
忠心厚い御家人の鑑のような人物です。
しかし、「畠山重忠の乱」と呼ばれる事件で、実に悲しい非業の死を遂げるのです。
この記事では、
・畠山重忠の死因は?
・なぜ畠山重忠は殺されたのか?
・北条義時も実は討つつもりだった?
について、解説をまとめています。
畠山重忠の死因は?
結論を言うと、畠山重忠は北条時政に陥れられ、死にました。
最期は二通り伝わっています。
・愛甲季隆の矢に討たれた
・自害した
いずれにしても二俣川の戦いに敗れて、死んでいます。
畠山重忠の最後はどうなった?
畠山重忠が北条時政に陥れられた理由は?
なぜ、畠山重忠は討たれたのでしょうか?
理由は、北条時政に陥れられて、謀反の疑いをかけられたからでした。
畠山重忠は、源頼朝の代から「清廉潔白な忠臣」として知られていました。
そんな重忠が、謀反の疑いをかけられたのには、こんな経緯がありました。
1204年、源実朝が3代目鎌倉殿となり、京から正室を迎えることになりました。
正室を迎えるために、御家人たちが上洛します。
歓迎の酒宴の席で、畠山重忠の息子・重保と、平賀朝雅が言い争いになります。
その翌日、畠山重保と一緒に上洛していた北条政載が病気で急死するのです。
北条政載は、時政とりく(牧の方)の息子でした。
そして平賀朝雅は、りくの娘婿でした。
平賀朝雅は、りくに重保に悪口を言われたと讒言します。
りくは、畠山親子に謀反の疑いがあると言って、時政に畠山を討つよう頼むのです。
『吾妻鏡』によると、時政は、息子の義時と時房に相談します。
義時たちは、畠山重忠が謀反を起こすはずがないと反対。
しかし、りくの兄に「りくが継母だから仇をしようとおもってるのだろう」と因縁をつけられ、重忠討伐に同意したということになっています。
畠山重忠が討たれるまでの経緯
まず、時政の娘婿の稲毛重成が、実朝に「畠山親子が謀反を企んでいる」と進言。
実朝は、畠山を討つように命じます。
しかし、実朝はこの時13歳の少年です。
執権の北条時政が言いくるめたとしか思えませんね。
ちなみに、稲毛重成は畠山重忠のいとこです。
まず息子の畠山重保が討たれた
討伐が命じられると、まず息子の重保がだまされて討たれます。
稲毛重成に「謀反人がいるから来い」とだまされて、畠山重保は一緒に由比ガ浜に駆けつけます。
そして三浦義村たちに取り囲まれてしまったのです。
「謀反人とは自分のことだ」と気づいた重保は、奮戦しますが味方は3人。
多勢に無勢で討ち取られてしまったのです。
畠山重忠もだまされた
一方、畠山重忠も「鎌倉に異変あり、至急参上されたし」と嘘を言われて呼びつけられていました。
130騎ほど率いて、鎌倉を向かう途中の二俣川(現在の横浜市)で、数万騎の軍勢とかち合います。
北条義時を大将軍とする討伐軍でした。
多勢に無勢でしたが、4時間の激戦となった末に、畠山重忠は最期を遂げたのでした。
北条義時の思惑と時政のその後は?
北条義時も実は討つ気満々だった?
北条家の正史書『吾妻鏡』では、畠山重忠を討った後の義時の様子が書かれています。
「悲しみの涙を禁じ得ない」とか「謀反を企てたというのは虚偽だ」とか言ってます。
しかし、史実を慎重によく見てみると、「変だな…」と思うことがあります。
・政子が、畠山氏の所領を御家人に分け与えている
・政子の女房たちにも、畠山の領地が分け与えられている
・畠山重忠が亡き後、北条時房が武蔵国の守護になった
畠山親子は無実だと言いながら、所領は取り上げているのです。
かなり奇妙な話です。
頼朝時代に、上総広常も謀反を疑われて、梶原景時に討たれました。
しかし死後に謀意はなかったと分かって、所領はすべて遺族に返されています。
比べて、畠山重忠は、政子のお付きの女房にまで土地を与えられているのです。
また、畠山重忠が治めていた武蔵の国の守護になったのは、義時が信頼する弟の北条時房でした。
北条の都合のいいようになったんですね。
これらのことを考えると、「義時も政子も、実は畠山を討つ気満々だったのでは?」と思ってしまいます。
(あくまで、個人的な推量です)
『吾妻鏡』は、北条家の正史書ですから、北条家に都合のいいようにしか書いてありません。
畠山重忠は、時政の娘婿でした。
政子や義時からすると、義理の兄弟ですよね。
娘や妹の夫を殺し、領地を取り上げているのです。
さすがにすべてを取り上げるのは気がとがめたようで、重忠の妻にも少し領地は残されたようですが…。
重忠の妻は再婚したので、畠山氏は滅亡してしまったのでした。
北条時政とりくも追放される
畠山重忠を落とい入れて殺害した後、時政とりくは実朝を廃して、りくの娘婿の平賀朝雅を将軍にたてようと企みます。
これにより、義時と政子から鎌倉を追放されることになるのです。
自業自得とは言え、追放だけで済んでいるのは、かなり甘い処分ですよね。
ちなみに、平賀朝雅は、義時と政子の命を受けた山内首藤通基によって殺害されています。
義時や政子からすると、「親を誅殺する」というのは、背徳感や罪悪感が強くて、できなかったのかもしれません。
時政とりくは、伊豆の修善寺に隠居して、以後は二度と政治に復帰できませんでした。
【鎌倉殿の13人】解説・考察記事の一覧
【北条義時】
【のえ】
【北条政子】
【三浦義村】
【実朝】
【北条時政・りく】
【比奈】
【善児・トウ】
【キャスト】
畠山重忠の死因まとめ
・畠山重忠の死因は、謀反の疑いをかけられて殺害された(自害説あり)
・平賀朝雅(りくの娘婿)と畠山重保(重忠の息子)の言い争いが発端
・恨んだりくが、時政に畠山親子を討つよう頼んだ
・時政とりくは、伊豆へ追放された