大河ドラマ『鎌倉殿の13人』のタイトル画像

2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』には、北条政子が登場します。

気の強い坂東女を、小池栄子さんが熱演していますね!

「北条政子は、どんな生い立ちなの?」

「北条政子の最後はどうなった?」

「大河ドラマの北条政子は、どこまで史実?」

と気になりますよね。

この記事では、

  • 北条政子の死因
  • 年齢つき年表で、生涯をざっくり解説
  • 年代ごとに分かりやすく解説
  • 大河ドラマと史実の北条政子の違いを解説

しています。

北条政子の死因は?お墓はどこ?

政子の死因は病死

まず、北条政子の最期について解説します。

北条政子が死んだのは、嘉禄元年7月11日(1225年8月16日)です。

69歳で病死しています。

夫の死後、26年生きたんですね。

また、子供たちよりも長く生きています。

  • 夫の頼朝は、1199年死去(享年52歳)

  • 長女の大姫は、1197年死去(享年20歳)

  • 次女の乙姫は、1199年死去(享年14歳)

  • 長男の頼家は、1204年死去(享年23歳)

  • 次男の実朝は、1219年死去(享年28歳)

北条政子は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の正室として、歴史に名を残しました。

頼朝の時代から、政治にも関わっており、権力ももっていました。

しかし、夫にも4人の子供たちにも先立たれ、妻・母親としては悲しい思いをした女性と言えそうです。

1199年には、夫と次女を2ヵ月のうちに、次々となくしています。

身内で骨肉の争いも多くあり、波乱万丈な人生でした。

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、次々と身内が死んでいく政子も描かれるでしょう。

ドラマの主人公は北条義時ですが、亡くなるのは政子より1年早い1224年です。

通常、大河ドラマは主人公の死までを描きます。

なので、ドラマに政子が死ぬシーンがあるかどうか、微妙ですね。

ナレーションが入るくらいかもしれません。

北条政子のお墓は、鎌倉の寿福寺

北条政子のお墓は、鎌倉市の寿福寺にあります。

洞窟のように仕立ててあります。

隣には、次男で3代将軍の実朝のお墓もあります。

こぢんまりした感じで、少し意外ですね。

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北条政子の生涯を年表で解説!

北条政子の生涯を、年齢つき年表で、ざっくり把握してみましょう。

分かりやすく西暦と、かぞえ年齢で表記しています。

西暦年齢出来事
1157年1歳北条時政の長女として生まれる。母親は未詳
1176年20歳源頼朝と結婚
1178年22歳長女・大姫を出産
1180年24歳夫の頼朝が「鎌倉殿」に、政子は「御台所」となる
1182年26歳長男・頼家を出産
1185年29歳壇ノ浦の戦いで、平家が滅亡する
1186年30歳次女・三幡(乙姫)を出産
1192年36歳夫の頼朝が、征夷大将軍となる
次男・実朝を出産
1197年41歳長女・大姫が病死
1199年43歳夫・頼朝が落馬して急死
長男・頼家が、2代目鎌倉殿となる
次女・三幡が病死
1202年46歳長男・頼家が、征夷大将軍となる
1203年47歳父・時政が執権就任し、長男・頼家を幽閉
次男・実朝を12歳で征夷大将軍にさせる
1204年48歳長男・頼家が殺害される
1205年49歳弟・義時が執権に就任
1215年59歳父・時政が死去
1219年63歳次男・実朝が殺害される
摂関家から2歳の三寅を迎え、将軍を代行
1221年65歳承久の乱の時に、御家人たちに演説
1224年68歳弟・義時が死去
伊賀氏の変を処罰
甥の北条泰時と時房を執権に立てる
1225年69歳政子が病死

1199年12月は、夫と次女が急死し、長男が跡を継ぐという大事が立て続けに起こります。

その後も息子たちは殺され、承久の乱も起き、死ぬ前年には北条家の跡継ぎ問題で大揉め。

晩年は、将軍の代行となります。

自らが「鎌倉殿」となったわけです。

波乱万丈で大変な人生ですよね。

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北条政子の生涯を時代別に分かりやすく解説!

北条政子は、鎌倉幕府の将軍の妻であり、母でした。

そして頼朝、頼家、実朝の3代にわたる将軍に、次々と先立たれます。

軍が死ぬごとに、政子の人生も区切られていくのです。

この章では、政子の生涯を時代別にくわしく見てみましょう。

北条政子の「御台所」時代

夫の源頼朝が「鎌倉殿」と呼ばれた時代、

北条政子は「御台所(みだいどころ)」と呼ばれました。

正室に対する敬称ですね。

年代的に言うと、1180年~1199年までです。

頼朝が死ぬまでですね。

この時代の北条政子は、次のようなことをしています。

御台所時代の政子
  • 長男の頼家を出産

  • 頼朝の愛妾・亀の前の家を打ち壊す

  • 源義高(義仲の嫡男)が討ち取られて、大姫が病んだと激怒
    義高を討った藤内光澄は、死罪に)

  • 大姫の回復を願って、寺社参拝や祈祷を行った

  • 静御前の舞を観たいと熱望
    (静御前は嫌がるも、渋々了承)

  • 義経を慕う歌を詠った静御前に頼朝が激怒し、政子がとりなした

  • 頼朝に、静御前の子供の助命歎願した

  • 静御前が鎌倉を出る時、たくさんの品物を贈った

  • 奥州征伐の時に、戦勝祈願で鶴岡八幡宮にお百度参り

  • 次男の実朝を出産

  • 狩りで頼家が鹿を射り、喜んだ頼朝が使者を立てて政子に知らせた

  • 政子は「武家の跡取りが鹿を獲ったぐらい騒ぐことではない」と使者を追い返した

  • 長女・大姫の縁談を進めようとするが、うまくいかない

  • 大姫のために、源義高の追善供養を盛大に行った

  • 大姫が20歳で病死し、悲嘆にくれた

御台所時代の北条政子にとって、最も気がかりだったのは、長女の大姫ではないでしょうか。

木曽義仲の嫡男・義高は、人質として鎌倉に送られました。

しかし、表向きには大姫の許嫁とされたのです。

木曽義仲が朝敵として討ち取られると、人質の義高も討たれます。

大姫が6歳、義高が11歳の時でした。

義高が大好きだった大姫は、ショックのあまり病床につき、起き上がれなくなります。

政子は、大姫の回復を願って手を尽くしますが、大姫は病気のまま20歳で亡くなるのです。

政子は、悲しみのあまり自分も死のうと考えたくらいですから、非常につらい思いをしたようです。

北条政子の「尼御台」時代

夫の頼朝が急逝し、長男の頼家が跡を継ぐと、北条政子は出家します。

そのため「尼御台」と呼ばれるようになりました。

年代で言うと、1199年~1219年ですね。

次男の実朝が死ぬまでの時代です。

尼御台の時代に、北条政子には次のことがありました。

尼御台時代の政子
  • 次女・乙姫の入内工作した

  • 乙姫が病死

  • 頼家に対して御家人が反発し、「十三人の合議制」が定められた

  • 長男の頼家と家人の安達景盛が、女性をめぐって争うのを仲裁した

  • 長男の頼家が、蹴鞠にふけるのを諫めるも、効果なし

  • 父親の時政とともに、日本を実朝と一幡(頼家の息子)で治めることを決めた

  • 怒った頼家が北条家を討伐しようとした結果、比企の乱が起きた

  • 頼家の死後、実朝を将軍にたて、父親の時政を初代執権にたてた

  • 弟の義時と組んで、時政を伊豆へ追放した

  • 家督争いを恐れて、頼家の子供たちをすべて仏門に入れた

  • 病気の実朝のために、熊野権現を参詣

  • 京の権力者・藤原兼子に、次の将軍について相談

  • 藤原兼子のあっせんで、従三位になる

  • 次男・実朝が、甥の公暁に暗殺されて、悲嘆にくれる

夫の頼朝の死後、出家して尼となった北条政子ですが、俗世間から離れることはありませんでした。

むしろ、政治的手腕をいかんなく発揮しているように思えます。

遊んでばかりいるダメ長男の頼家に愛想をつかし、次男の実朝を「鎌倉殿」にしようとしました。

怒った頼家が北条家をつぶそうとして比企を頼ったため、北条vs比企の戦いとなります。

頼家は伊豆の寺に幽閉され、殺されてしまうのです。

家督を巡って身内が争うのは、武家ではままあることですが、恐ろしいですね。

政子は、弟の義時と協力して、父・時政を追放します。

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、大きな見どころとなるでしょう。

また政子は、これ以上、身内で争わずにすむよう、頼家の子供たちをすべて仏門に入れます。

しかし、頼家の息子・公暁が、実朝を暗殺するのです。

すべての子供を失った政子は、淵に身を投げようと思うほど、嘆き悲しんだのでした。

北条政子の「尼将軍」時代

実朝の死後、政子はますます政治力を発揮していきます。

実朝の死後、政子と弟の義時は、後鳥羽上皇の皇子を将軍に切望します。

しかし、上皇があれこれと条件をつけたため、うまくいきません。

最終的に、皇族ではなく摂関家から、幼い三寅を皇子として迎えることになります。

三寅は2歳だったため、政子が後見となり将軍を代行するのです。

そのため「尼将軍」と呼ばれるようになったのです。

姉が将軍代行で、弟は執権ですから、北条家の天下ですよね。

年代としては、1219年~1225年です。

『吾妻鏡』でも、この時期の政子を「鎌倉殿」と記しています。

尼将軍・政子の晩年は、次のようなものでした。

尼将軍時代の政子
  • 摂関家の三寅(藤原頼経)を4代将軍として迎え、後見人となる

  • 後鳥羽上皇と弟・義時の関係が悪化し、承久の乱が起こる

  • 承久の乱で、政子は御家人を鼓舞す演説をした

  • 後鳥羽上皇が降伏したので、義時と共に戦後処理した

  • 義時が急死し、次期執権をめぐって伊賀氏の変が起きた

  • 政子は伊賀氏を追放し、甥の泰時と弟の時房をW執権にたてた

  • 義時の死の翌年、政子も病死した(享年69歳)

こうしてみると、確かに「将軍」と言えそうなほど、政治に辣腕をふるっていますね。

承久の乱の時に、政子が御家人たちに演説したことは有名ですね。

まさか京に攻め上って来ると思わなかった後鳥羽上皇は、慌てます。

朝廷VS幕府の戦となったわけですが、後鳥羽上皇はあっけなく負け、隠岐島へ配流となります。

朝廷にも勝って、幕府は盤石かと思いきや、執権である弟の義時が急死します。

義時の妻・伊賀氏の陰謀と言われているのですが、政子のでっちあげとも言われています。

いずれにせよ、政子はライバルの伊賀氏を伊豆に追放

義時の後継者として、甥の泰時(義時の嫡男)と、弟の時房をW執権としたのです。

これにより、北条家の完全なる天下となっていきます。

政子は間もなく亡くなっているので、最後の大仕事だったと言えるでしょう。

非常に政治的な人生を送った、まさに「尼将軍」という異名がふさわしい女性ですね。

政子の演説内容や、義時の死については、別の記事にまとめましたので、ご参照ください。

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大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の政子と史実の違いは?

https://twitter.com/nhk_kamakura13/status/1467707876324126722

2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』は、北条政子の弟・義時が主人公です。

そのため、政子も初回から登場しており、主要人物です。

ドラマを観ていると、「どこまで史実で、どこから演出なの?」と思いますよね。

ブログ主は源平マニアなので、北条政子の小説なども読んでいます。

3/6現在、20回までのあらすじが分かっていますが、ドラマの政子はおおむね史実と同じイメージです。

義経は、かなり腹黒いダークな武将として演出されています。

また、八重はほとんど創作の人物になっています。

政子については、『吾妻鏡』で逸話が多く残っています。

また、気が強く情熱的で、嫉妬深く、政治的な女性と、かなり個性的。

史実のキャラクターのままで、十分ドラマチックなので、脚色・演出する必要がないのでしょう。

八重については、別の記事にまとめましたので、ご参照ください。

北条政子の「御台所」時代

ドラマの「ここは史実通り」という箇所は以下です。

史実通りの箇所
  • 頼朝と政子が結婚(2話)

  • 大姫を出産(3話)

  • 頼朝が挙兵し、伊豆山権現へ避難(5話)

  • 頼家を出産(12話)

  • 頼朝の愛妾・亀の前の家を打ち壊す(12話)

  • 源義高が討ち取られて、大姫が病んだと激怒(17話)

一方、ドラマの「ここは演出」という箇所は、以下です。

ドラマの演出
  • 頼朝を巡って、八重とバチバチ女の戦い(2話~)

  • 頼朝と再会する時に、梶原景時が着物を用意した(8話)

  • 義経が、政子に甘えて膝枕(10話)

  • 政子と亀が話し合い(13話)

上記のあたりは、三谷幸喜さんの演出ですね。

ドラマをより面白くするために、脚色しています。

また17話で、政子が源義高を逃がそうとするシーンがあるのですが、史実かどうか不明です。

大姫と御所の女房たちが、協力して義高を逃がそうとします。

そこに政子も関わっていたかは、史実としては正確には分かっていません。

北条政子の「尼御台」時代

ドラマのあらすじが分かり次第、更新します。

北条政子の「尼将軍」時代

ドラマのあらすじが分かり次第、更新します。


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北条政子の死因と生涯まとめ

まとめ
  • 北条政子の死因は、病死(享年69歳)

  • 北条政子は、夫や子供たちより長く生きた

  • 北条政子は、弟・義時が死んだ翌年に亡くなった

  • 北条政子の最後の仕事は、伊賀氏を伊豆へ追放し、甥と弟をW執権にたてたこと

  • 北条政子は、尼将軍と呼ばれるほど、政治的辣腕をふるった

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